3-9  2005/07/10


  古代史についたくさん時間を使ってしまい、今期もたくさん積み残しがありましたので
  来期は欲張らないようにやりたいと思います。
  時代を追ってゆく時にサッと流してしまうと、僕自身が納得できないものですから
  つい余計なお喋りをして申し訳ありませんでした。(先生のごあいさつ)

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  先生の用意してくださった3期の資料はB4でコピーも交えて
  殆どは紙にびっちり手書きで43枚ありました。
  恐ろしく詳しく多岐にわたり複層的に歴史を検証しています。
  古代史4回分の内容は一年かけてやるに足るものだったのでないかと思います。
  サイトにまとめるにあたって歴史に弱い管理人は知らない事だらけで
  ちんぷんかんぷんで本当に苦労しました。ものすごく出来の悪いまとめです。
  でも何故大化の改新があったのか、壬申の乱の意味は、その必然に思い至り
  権力の魔力に絡め取られた人々が片手を血に染めながら
  もう片方の手で嘘の歴史を作り上げてきた過去が、現在にまで影を落としていることに
  今更ながら驚かされました。
  歴史を学ぶことは今を知ることだと心に刻んだ古代史シリーズでした。


  手打蕎麦でお昼    
                

      
 

  恒例のくらぶるーむ暖の運営委員による
  本格手打蕎麦ランチ(お蕎麦 煮物 小梅のゼリー 1,000円)でお昼です。
  打ちたてのお蕎麦って本当に美味しい!
  善方先生を囲み毎期に一度のお楽しみでやっています。

  



古事記、日本書紀が作られた時代背景

有力豪族たちの支配から権力の一極集中(天皇)へ(No.40)

大和国家は部族連合体国家であった

4世紀 祟神王朝(大和王朝、原大和国家)

吉野川上流渓谷地方を根拠地とした狩猟、漁労を生業とする部族
宮居 磯城瑞籬(しみずがきのみや)

前回のレポート参照

5世紀初 仁徳王朝

邪馬台国、女王卑弥呼247年ごろ狗奴国と交戦中死亡。
狗奴国王 応神が九州を統一
5世紀始めに仁徳天皇 難波へ遷都(難波天皇) 
宮居 難波高津宮(大阪市東区)

仁徳王朝は26代継体天皇が北陸から来た天皇で血が途切れている。
日本書紀によると継体天皇の宮居は磐余玉穂宮(イワレノタマホ)
1代の神武天皇のおくり名の神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)
「磐余」が共通で暗に神武の末裔であるかのようにしている。
■ 仁徳天皇の陵墓
河内にあり基底の広さが世界一。盛り土の量は延べ140万6千人が運んだ。
埴輪が3万個で、石は大型トラック数千台分。
存在が疑問視されている応神天皇の墓も盛り土の量が世界一。
仁徳天皇が生前に作らせた寿墓だと思われ、その権力の大きさがしのばれる。

6世紀末 統一王朝出現

587年 大臣蘇我馬子、泊瀬部皇子(32代祟峻天皇)厩戸皇子(聖徳太子)大連物部守屋を滅ぼす
593年 聖徳太子、推古女帝の摂政
603年 小墾田宮(おわりだのみや)造営 冠位十二階を制定
604年 憲法十七条の制定
607年 小野妹子を隋に派遣
     中央集権的な官僚体制が整い始めたこの頃に新しい首長の在り方と
     その呼び方が必要になってきた。
645年 大化の改新 大化2年に詔が出て天皇中心の社会へ。

天皇の称号が使われだしたのは

■ 607年 (推古15年)31代用明天皇の造立した「薬師像」光背の銘文に
     「小治田大宮治天下大王天皇おわりだのおおみやおほきみすめらみこと

■ 万葉集 770年頃(48代称徳天皇時代)成立した 大伴家持・編者 
       仁徳天皇から759年(48代淳仁天皇時代)までの和歌約4500首収録
       万葉かなが記されている

   ・巻三 雑歌 天皇、雷岳に御遊しし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首

     235 大君は神にし座せば天雲の雷(いかづちの)の上に盧(いお)らせるかも

        天皇=天武、持統、文武のいずれか。持統か。
        雷岳=奈良県高市郡明日香村雷にある丘
        盧(いお)らせるかも=存続の意を表す

        右、或る本に曰く、忍壁皇子(天武第9皇子、律令制度にかかわる)に
        たてまつるといへり。その歌にいはく

        (おほきみ)は神にし座せば雲隠る雷山に宮敷きます

        
宮敷きます=御殿をいとなんでおいでになる
        
      
241 (おほきみ)は神に座せば真木の立つ荒山中に生みを成すかも

         真木=檜 杉 松      
         真木立つ荒山中に=真木の立っている荒れた山の中にも

日本という国号の使用

■  608(推古16)年9月小野妹子、斐世清を送るために再び隋へ。4月に帰国。
   隋の皇帝の煬帝に献じた国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
     「日出ずる処」→「日の本」→「日本」 日本の原型

■  669(天智8or天智2)年 
   中国の新唐書 唐一代(618〜907)を記した紀伝体正史、225巻(11世紀欧陽州らの選)
   この書で669年に正式の我が国の国号を「日本」と使用。

   10月中臣鎌足、大織冠(だいしょくかん)授け内臣(令制にはない)とし藤原のせいを与える
   河内鯨らを唐に派遣。

国号の使用に見る書紀の天皇名

7世紀後半から使われ始めた「日本」が入っていることから、代々伝わったおくり名でなく
日本書紀が書かれた時代に一度に名づけられたことが推しはかられる。 
天皇の名前 諡号(しごう、おくりな=死後につける名前)
1 神武じんむ 日本磐余尊(カムヤマトイワレヒコ)
2 綏靖すいぜい 神渟名川耳尊(カムヌナカワミミ)
3 安寧あんねい 磯城津玉手看尊(シキツヒコタマデミ)
4 懿徳いとく 日本耜友尊(オオヤマトヒコスキトモ)
5 孝昭こうしょう 観松香殖稲尊(ミマツヒコエシネ)
6 孝安こうあん 日本國押人尊(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)
7 孝霊こうれい 日本根子太瓊尊(オオヤマトネコヒコフトニ)
8 孝元こうげん 日本根子國牽尊(オオヤマトネコヒコクニクル)
9 開化かいか 日本根子大日日尊(ワカヤマトネコヒコオオヒヒ)
10 祟神すじん 御間城入五十瓊殖尊(ミマキイリヒコイニエ)
〜 以下 略 〜  参考サイト 邪馬台国大研究 の 歴代天皇一覧表
1代と2代には「神」の字が入っていて神の子孫であることを強調している。

14代まで「彦」が入っているのに15代からは「彦」がなし。
10代の祟神天皇から14代は仲哀天皇までが大和王朝で
16代から九州からやってきた仁徳王朝に政権交代したと考えられる。

平安時代の天皇家の歴史

権力のために近親結婚を繰り返し、即位の邪魔になる者を陥れたり凄まじい歴史
      先生の書いた系図の全体図を載せられませんでしたので
    「海人と天皇 日本とは何か 梅原猛 1995より」 というサイトの
     
母たちの系図 
←クリックして参考にしてください


     

 女帝の41代持統天皇から見てみると、
 持統天皇の父は39代天智天皇(中大兄皇子)で、壬申の乱で異母弟の
 大友皇子を殺して天皇になったのが夫で叔父の天武天皇で
 姉妹である大田皇女も新田部皇女も夫の后になっている。

 天武天皇は身分の低い女に産ませた高市皇子を天皇に望んでいたが病死し
 その後、持統天皇は10人いる皇子の中からなんとしてもわが子草壁皇子を
 天皇に即位させたかったが26歳で夭折した。
 彼と妹との間に産まれた孫を42代文武天皇として即位させたが
 彼もまた近親結婚のためか24歳で死亡。
 持統天皇の妹で文武天皇の母が43代元明天皇に。

 44代は元明天皇の娘の元正天皇で子どもがいなかったので
 45代は早死にした42代文武天皇と藤原不比等と漁師の娘から産まれた
 宮子(みやし)との間に産まれた聖武天皇でその后は
 藤原不比等と権力欲の強い県犬養美千代(あがたいぬかいのみちよ)との娘
 光明子(こうみょうし)との間に出来た46代孝謙女帝で48代称徳と同人物。
 (不比等の息子は天然痘で死んだので美千代の子ども橘諸兄(たちばなのもろえ)
  
が後に活躍)

 47代が天武と新田部皇女との間に出来た淳仁(じゅんにん)天皇だが
 無能で失脚。前述の称徳天皇に帝位が戻る。

 49代は63歳で天皇になった天智天皇の孫の光仁(こうにん)天皇。 
 何故こんな老齢の天皇かというと持統天皇以来39代天智天皇系列の
 天皇が続いたが、中大兄皇子(天智天皇)と共にクーデターをおこした
 藤原氏にとって権力の強化のため天智天皇系列の天皇を即位させた。
 藤原氏は天武系列の井上皇女と他戸皇太子が光仁天皇を
 陥れようとしていると天皇に告げ口して幽閉させ消してしまった。
 光仁天皇と百済系の高野新笠(たかのにいがさ)との間に生まれたのが
 桓武天皇で天皇中心の政治をめざし明治天皇や昭和天皇も理想とした。

   ◆参考資料

    門脇禎二・田辺昭三「教養人の日本史@」社会思想社刊
    高木市之助・五味智英・大野晋「日本古典文学大系C萬葉集一」岩波書店刊
    水野拓「大和朝廷成立の秘密」KKベストセラーズ
    鳥越憲三郎「神々と天皇の間 大和朝廷成立の前夜」朝日新聞社刊   他

天武天皇の時代に古事記と日本書紀が作られたのは

620年 33代推古天皇の時に歴史書の編纂が始まる。
推古天皇は蘇我氏の血を引いていたので645年大化の改新で蘇我氏が滅ばされると
蘇我氏の作った記録は焼失してしまう。しかし写しが残っていたのではないか。
記紀の原型となった神話はそれを基にしていると思われる。
蘇我氏の葛城王朝では高天原は九州ではなく金剛山の麓にあった。
記紀のルーツは蘇我一族の思いから始まった。

天智天皇は律令制度を取り入れ国家権力を強化するよう努めた。
中央集権国家体制の移行期で天武天皇は天皇家の日本統治を正当化し
権威を絶対的なものにするため、天皇家の先祖が神であり絶対的な権威であることを
正当化させるために日本の歴史書を神話に重ね合わせて作らせた。


   ◆参考資料 「毎日新聞 ふれあいプラザ 謎解き日本史 日本書紀」
   ◆参考資料 「古事記と日本書紀」

                                     その2に続く