<古事記が完成したのは元明天皇の時代>
持統天皇? 草壁皇子?
↓ ↓ 文武天皇?
まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ ↓
天照大神 ---- 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 --- ひこまににぎのみこと
|−天津彦彦火瓊瓊杵尊
高皇産霊尊 ---―――― 栲幡千千姫 ―------
天皇家が神の子孫であるという天孫降臨の話に
現実の持統天皇から孫の文武天皇への譲位が重ねられている。
〜 昭和18年版 初等科国史 上 〜 今の小学校6年生 第一 神国 三 五十鈴川 ・・・前略 垂仁天皇は、もっぱら御父の御業をおつぎになって、農業をお進めになり、ひたすら民草を おいつくしみになりました。 あの田道間守たじまもり の物語によっても御高徳のほどを おしのび申すことが出来る御稜威みいつは遠く海外に、かがやくようになりました。 天皇の業績を褒め称える しかし、交通の不便なこのころのことですから、遠い九州や東北の地方には、皇室の 御惠を、まだ十分にわきまへないものがありました。第十二代景光天皇から第十四代 仲哀天皇の御代にかけて、西の熊襲、東の蝦夷が、しばしば、わがままなふるまひを くりかえしました。 おそれ多くも、景光天皇は御みづから熊襲を討っておしづめになり、また武内宿禰すくね に命じて、蝦夷のようすをお調べさせになりました。 それでもなほ治らないので、皇子日本武尊に、重ねてお討たせになりました。 その御武勇によって、熊襲もしばらくは鳴りをひそめ、蝦夷もまたすづまりました。 東國へお出かけになる時、尊は、特に皇大神宮の御剣をお受けになり、 神々のおまもりよつて、御武運をお開きになつたのでありました。 領土が拡大 かうして、今や御稜威は東西にかがやき、やがて第十三代成務天皇の御代になると 國や郡こほりが設けられ、役人が置かれて、地方の政治が大いに整つて来ました。 注: 家50戸→村 村、里2〜20→郡 郡5〜6→国 実際にこのような制度が整ったのは42代文武天皇の時代701年である。 ついで仲哀天皇がおたちになつてまもなく、またまた熊襲がそむきました。 天皇は神功じんぐう皇后とともに、将兵をひきゐて、筑紫へおくだりになりましたが、 熊襲がまだしづまらないうちに、おそれ多くも、行宮あんぐうでおかくれになりました。 仲哀天皇が死んだのは神のお告げを信じなかったせいだと言われている。 夢で熊襲は問題でない。新羅を討ちなさい。と言われたが信じず罰があたった。 神功皇后はそれを信じた。 皇后は、御悲しみのおうちにも、新羅が熊襲のあと押しをしてゐることを、お見やぶりになり 武内宿禰の考へをもおくみになつて、いよいよ、新羅をお討ちになることになりました。 紀元860年のことであります。 ![]() 國々からは、勇ましい将兵や多くの軍船が、お召しに應じて、次次に松浦まつらの港へ 集まって来ます。まことに、細戈千足くはしはこちたるの國の力づよさを思はせる光景で あります。皇后は、うやうやしく、神々に戦勝をお祈りになり、将兵は、決死の覚悟を ちかひました。折からの追い風を帆にはらんで、軍船は矢のやうに、海面をすべつて 行きました。 ![]() おどろきあわてたのは、新羅王です。 「音にきく日本の船、 神國のつはものにちがひない。」 と思って、 王はすぐさま皇后をお出迎へ申し上げ、 二心のないしるしに、毎年かならず みつぎ物をたてまつることを、堅くちかひました。 勢いこんだ将兵の仲には、王を斬ろうと するものもありましたが、 皇后はそれをとめて降伏をお許しになり、 王が真心こめてたてまつつた金・銀・綾・錦を 八十艘の船に積んで、 勇ましくめでたくお帰りになりました。 いかに日本が強く天皇が立派なのかを アピールしている。 3世紀始めごろの九州の北方の邪馬台国が あり、その女王卑弥呼をモデルにして 神功皇后を創作? 現実には天智と天武の母の斉明天皇時代 百済救援軍が大敗している。 負の過去の歴史を塗り替え捏造。 こののち、熊襲がしづまつたのはいふまでもなく、百済や、高句麗までも わが國につき従ひました。日本のすぐれた國がらをしたつて、その後、半島から渡つて来る 人々が、しだいに多くなりました。このやうに、國ないがしづまり皇威が半島にまで 及んだのは、ひとへに、神々のおまもりと皇室の恩恵みによるものであります。 実際には三漢征伐はなかった。 ◆参考資料 その時歴史が動いた「白村江・古代最大の対外戦争」 |
桶川図書館からお借りした実物を精巧にコピーした墨塗りの国語の教科書