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手にしているのは初任給で買った啄木の
「雲は天才である」です。
17才で代用教員になり
啄木と同じ2年生を受け持ちました。
給料がとても安くて、母には
「あなたのお昼代しか出ませんよ」と言われ
採用された時、学校からも
「辞めないでください」と頼まれたくらいでした。
でも初めてもった生徒の姉貴が
(照れながら)今の家内です。
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石川啄木らの生涯を辿って明治という時代を検証する。(資料No.23 No.24 No.25)
国民を教育することの二つの意味
● 労働者の質の向上
明治維新後の政府の殖産興業の施策により産業革命が興り
質の高い労働力の必要性が生じたため政府は国民教育に力を入れた。
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1907(M40) 義務教育 4年制 から 6年制になる
帝大を東京、京都の他に九州、東北につくる
女子教育、職業教育、社会教育、充実させる
● 政府への批判精神が育つ
教育によって教養や知識も増え国家体制への疑問や批判も生じる。
天皇制批判は国家体制の基盤を揺るがすのでタブー。
↓
教育勅語を発布し天皇制を教育の場で徹底して教え込む
現在の問題 参考資料・「国家体制再編めざす教育基本法改悪」小森陽一
大逆事件 政府への批判を徹底的に弾圧した出来事
1910(M43)5月25日宮下太吉、新村忠雄、新村善兵衛、爆発物取締罰則違反の容疑で検挙。
長野で爆弾を製造した宮下太吉が新村忠雄、古河力作、菅野スガとの
天皇暗殺計画を供述する。
6月 1日幸徳秋水逮捕。続いて無政府主義者、急進的社会主義者と目された者
数百名逮捕。
宮下らの天皇暗殺計画に乗じて、政府は幸徳秋水を首謀者に仕立て
大逆罪容疑で12月に26名を起訴した。
大逆罪は、大審院だけの一審制。証人喚問許さない秘密裁判で非公開。
控訴、上告もなし。
1911(M44)1月18日判決。死刑24名。無期懲役2名。
19日死刑判決者のうち12名は刑一等を減じて無期懲役。
24日幸徳秋水・菅野スガなど死刑執行。
政府による弾圧によって社会主義運動は壊滅的な打撃を受ける。
大逆事件が天皇制に刃向かう者は命を奪われるという恐怖を植え付け
権力に対する様々な批判を封じ込めた。
同年の1910年8月29日朝鮮併合が天皇制へのプロパガンダという役割を果たし
天皇制への絶対的な服従が政府によって形成されていった。
ロマン主義文学から自然主義文学へ
■ ロマン主義
因習や封建的制度、家族制度(個人は家に従属する)から<吾れ>を解放する
わが内にある熱き思い、あこがれ、美・・・
それを日常のことばで表現し個としての自己を公に変えてゆく。
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■ 自然主義
自然科学の影響を受け、19世紀末フランスに興る。
自己の存在する社会、自己の周辺に眼を転じてみると、
厳しい生活の実相が見えてくる。
そこから<個としての自己>から<社会的自己>が見えてくる。
平凡な事実の中から人生の意義を見いだそうとする。<美>の追求から
<真>の追求へ。
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島崎藤村 自然主義文学の限界
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1872(M5) 筑摩県(現長野県)馬籠村の馬籠宿本陣・問屋・庄屋を兼ねた旧家で生まれる。
1891(M24)明治学院卒業。
1892(M25)明治女学校に奉職。20才
1893(M26)教え子 佐藤輔子との恋に悩み退職し旅に出る。
1897(M30)「若菜集」25才 その青春の記念。日本の近代詩の新境地を開く。
1899(M32)小諸義塾に赴任。秦フユ(冬子)と結婚。27才
1900(M33)「破戒」執筆中三女死亡。33才
1906(M39)妻の父から借金して「破戒」自費出版。この年次女、長女相次いで死亡。34才
:
1935(S10)日本ペンクラブ初代会長に就任。63才
1943(S18)神奈川県大磯の自宅で執筆中に倒れ永眠。71才
「破戒」 自然主義の先陣を切り小説家としての評価を得た作品。
丑松は15~6才の自分の生徒たちに、自分が部落出身であることを懺悔し学校を去る。
<真>を告白した丑松に対して社会は冷たく、彼を受け入れようとしない。
学校と村を追われた丑松は心を寄せるお志保(生まれより人柄と言い切る女性)の
愛に励まされて新しい人生を求めてアメリカのテキサスに旅立ってゆく。
この作品では社会体制にかかわる問題を個人の問題という枠内に収めたとらえ方で
本質的な解決にはならず、問題を後世に残した。
身分制度、部落への差別意識は個人の問題ではない。
石川啄木 天賦の才と悲運に彩られた短い一生
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1886(M19)岩手県日戸村(ひのとむら)常光寺住職の長男として出生。本名 一(はじめ)
1887(M20)同県隣村の渋民村に移住。終生この地を故郷とする。
1898(M31)盛岡中学入学。
不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心 (ロマン主義時代)
1902(M35)盛岡中学を退学。文学で身を立てようと上京。16才
1903(M36)新詩社同人となり”啄木”を号して詩作に励む。
1904(M37)病を得て帰郷。父親が住職を罷免されることにより両親の扶養義務を負う。18才
1905(M38)処女詩集「あこがれ」刊。堀合節子と結婚。19才
1906(M39)渋民小学校の代用教員になる。小説「雲は天才である」を執筆。20才
1907(M40)北海道に移住。各地を転々。
友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買ひきて妻としたしむ (自然主義時代)
1909(M42)東京朝日新聞者の校正係に職を得て再度上京。歌壇で注目される。23才
1910(M43)処女歌集「一握の砂」刊。1908~10年までに詠んだ短歌から厳選551首。
大逆事件おこる。
大逆事件の反響 石川啄木
一月十八日 半晴、温 今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であった。
午前に 前夜の歌を精書して創作の若山君に送り、社に出た。
今日程予の頭の昂奮{こうふん}してゐた日はなかった。
さうして今日程昂 奮の後の疲労を感じた日はなかった。
二時半過ぎた頃でもあったらうか。「二 人だけ生きる ゝ」「あとは皆死刑だ」
「あゝ二十四人!」さういふ声が耳に入 った。
「判決が下ってから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告してゐた。
予はそのまゝ何も考へなかった。たゞすぐ家へ帰って寝たいと思 った。
それでも定刻に帰った。帰って話をしたら母の眼に涙があった。
「日本 はダメだ」そんな事を漠然と考へ乍{ながら}丸谷君を訪ねて十時頃まで話し た。
夕刊の一新聞には幸徳が法廷で徴笑した顔を「悪魔の顔」とかいてあった。
かなりの衝撃を受けた
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多くの作家達は国家権力の脅威を感じて私小説へと逃避。
永井荷風 「花火」
明治44年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折折市ヶ谷の通で囚人馬車が
五六台も引き続いて日比谷の裁判所の方へ走ってゆくのを見た。
わたしはこれ迄見聞きした世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持の
したことはなかった。
わたしは文学者たる以上はこの思想問題について黙していてはならない。
小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。
然しわたしは世の文学者とともに何も言はなかった。
私は良心の苦痛に堪へられぬような気がした。
わたしは自ら文学者たることについて甚だしき羞恥を感じた。
以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに
しくはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れをさげ浮世絵を集め三味線を
ひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが
桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知ったことではない---
否とやかく申すのは却って畏れ多い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた
其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思い立ったのである。
卑怯さを率直に告白して権力に対して闘わないで現実逃避する事を表明。
自らを文学者でなく戯作者であると宣言。
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大正デモクラシーの萌芽
作家 徳富蘆花
兄蘇峰を通じて桂太郎首相に幸徳秋水 らの助命を嘆願。
朝日新聞に天皇陛下に願い奉る上奏分を掲載。
一 高で学生に頼まれて「謀叛論」と題する講演を行なった。
「諸君、僕は幸徳君等と多少立場を異にする者である。
僕は臆病者で血を流 すのは嫌である。……暴力は感心が出来ぬ。
自ら犠牲となる共、人を犠牲には したくない。
然し乍ら大逆罪の企に萬不同意であると同時に、其企の失敗を喜 ぶと同時に、
彼等12名も殺したくはなかった。生かしておきたかった。
彼等 は乱臣賊子の名を受けてもたヾの賊ではない。志士である。
たヾの賊でも死刑 はいけぬ。況んや彼等は有為の志士である。
……諸君、幸徳君等は時の政府に 謀叛人と見做されて殺された。
が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れては ならぬ、
自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。
……繰り返して曰ふ。諸君、我々は生きねばならぬ。
生きる為に常に謀叛しな ければならぬ。自己に対して、また周囲に対して」
この講演が不敬として問題となった時、校長新渡戸稲造は責任を一身にかぶり
責任を引き受けた。 |
啄木は時代閉塞の空気を感じて、果敢にそれをうち破る道を模索する。
「時代閉塞の現状」より 1910(M43)8月執筆
我々青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。
強権の勢力は普く国内に行わたっている。
現代社会組織はその隅々まで発達している。
――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、
その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。
戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ
振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。
財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。
:
かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、
ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。
それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。
我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。
自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察
――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。
自然主義文学への訣別と、青年達に国家を自分たちの力で変えてゆこうという意思表明。
アジテーション。 |
啄木は大逆事件の弁護人となった新詩社同人の弁護士平出修から
裁判資料を見せてもらったりして熱心に調べる。
1911(M44)新雑誌「樹木と果実」の発刊を計画するも頓挫。
青年の自覚を促しその力を結集することで時代閉塞の現状を打開しようとするも
出版社は倒産。自身は腹膜炎で入院後、肺結核で再起不能となる。
ココアのひと匙 (社会主義時代)
われは知る テロリストのかなしき心を
言葉とおこなひとを分ちがたき ただひとつの心を
奪われたる言葉のかはりに おこなひをもて語らんとする心を
われとわがからだを敵になげつくる心を
しかして そは真面目にして熱心なるひとの常に有つかなしみなり。
はてしなき議論の後の 冷めたるココアのひと匙を啜りて
そのうすにがき舌触りにわれは知るテロリストのかなしき心を。
1912(M45)肺結核で死去。26才
没後、第二歌集「悲しき玩具」刊。 啄木の歌ここをクリック
「命とは肉身ではない。その人の理想である。」 西田幾多郎
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