9  2005/01/23

                                                 その2

■ 登美子 たびたび病に臥す 

1905(M38) 11月 急性腎臓炎で入院。呼吸器疾患に転移。
1906(M39)  2月 退院。 
          4月 授業を受け始めたが体力が続かず遅刻、欠席がちで留年する。

  ああいはんと君を恋しとなつかしと 人たらずんば人たらずともよし

  このまこと船にも化けよ君のせて 産後のしまに逃げ参らせむ

  桜ちる音と胸うつ血の脈と 似けれそぞろに涙のわく日


         7月 京都の三姉の婚家先へ。12月高熱を発し京大病院に入院。
1907(M40)  1月 退院。


■ 登美子 忍び寄る死の影

1907(M40) 1月 明星2月号に10首載る。

  われ招く死のすがたか黒谷の 鐘なる暮の山出る雲  自分の死の姿 死の予感

  鴨川のみぎはに泣けり誰れ知るや ましろき医師をわが涙とも

  わが病める宵寝の末に川こえて 花の香をまく知恩院の鐘

  わが死なむ日にも斯く降れ京の山 しら雪たかし黒谷の塔

  くれなゐの蝶のにほひに猶も似る 有りて年ふるわが恋ごろも

  
       3月 日本女子大学校 中退。

         6月 明星6月号に12首載る。

  いま残るこの反省は吾れと吾が はふる穴ほる心地にひとし

  君きます焔の波をかいくぐり 真白き百合を浮木にはして

  灰色のくらき空より雪ふりぬ わが焚く細き野火を消さむと

  

■ 登美子を支えていた父の死

1908(M41)1月6日 父危篤 大雪の中、姉みつと京都を発って若狭へ。
        1月7日 夜遅く小浜の実家に着くが二日がかりの旅は登美子の病勢を進めた。
        1月24日 父 貞蔵 死去(73才)

        4月 明星 通巻94巻に「父君の喪にこもりて」18首載る。

  雲居にぞ待ちませ父よこの子をも 髪は召します共に往なまし

  わが胸も白木にひとし釘づけよ 御棺
(みひつぎ)とづる真夜中のおと


 父の死後、家族間に不協和音。結核の登美子は兄に疎んじられる。
 父の葬儀のあと実家に病み臥した一年三ヶ月は登美子にとって苦しみの日々。
 明星94巻には父への挽歌のあと自分自身への挽歌5首を載せている。

  ゆらゆらと消えての火ぞにしまひたる あらうらがなし我のたぐひぞ

  ながらへばさびしいたまし千金の くさりにからみ海に沈まむ

  胸たたき死ねと苛む嘴
(はし)ぶとの 鉛の鳥ぞ空掩(おお)ひ来る

  海に投ぐ もろき和賀よの夢の屑 朽木の色を引きて流れぬ

  おっとせい氷に眠るさいはひを 我も今知るおもしろきかな



 
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    前年京都で会った友 平野花子への挽歌
    (平野万里(「晶子鑑賞」の作者)の妻)08年1月24日死去

  ひぐるまの真夏の花につつまれて 生まれし君を失ひて泣く

  ひと夏の西のみやこの川ほとり 別れし人をまたも見ぬかな
    


■ 登美子 生前 最後の発表

1908(M41)5月 明星 通巻95号に14首掲載

  土のそこ穴ほり住めるここちして 日も見ず寂し父はいまさず

  なほひと目おぼろにうつる御姿の 見えよと暗き夜を尋ねゆく

  死の御手へ いとやすらかに身を捧ぐ 心うるわし涙わく時

  おとしませ億劫
(おくごう)さむき幽界(よみ)の底 そのいつわりの恋をまもらむ

  矢のごとく地獄におつる躓きの 石とも知らず拾ひ見しかな

  わが柩まもる人なく行く野辺の さびしさ見えつ霞がなびく

    前年8月 養女にと思っていた亡三姉みちの長女いぐ が5年4ヶ月の姓名を閉じ
    悲しみは大きかったが、いくの死に際し挽歌は詠んでいない。
    もはやそれだけの気力も体力も残っていなかった。

  

■ 明星の凋落 

1908(M41)11月 明星 通巻100号で終刊。
            鉄幹・晶子宛に書簡を送る。

 「終わりの雑誌かなしく候。併しお写真にて皆様の大人に成り給ひしを見れば
  うれしさに涙おち候。私病気 大層よろしく候。」


  終刊で鉄幹は失意の底に落ちてしまうが、晶子が励まし大勢の子どもを育てながら
  お金を稼いで渡仏させる。晶子も後を追って一緒にヨーロッパを見て回る。

 何故 ロマン主義文学は衰退していったのか?

  日露戦争後、一等国になったとは言え戦争の無理もたたり国民の生活は苦しくなり
  人々の意識が恋愛どころではなくなってきた。

 * 大浜徹也 「明治の墓標」河出文庫より *

1905(M38)年度の収穫は「天保の大飢饉」にも比定されるほどの凶作。
宮城県では8割7分。福島県では7割6分。岩手県では6割6分の減収。
衣類、夜具、什器は殆ど売り払って食料にかえ、寝る時は藁やこもなどをかぶり
腰をおおうボロさえない惨状を呈している。
凶作は天候不順によることだけではなく、働き手が招集された上に
牛馬が戦争で徴発されたことで生産力が奪われた結果であった。
上の駅に降りる人の10人のうち7人は東北三県の窮民が求職のため
上京した者であったという。
彼らは待受けるポン引きによってわずかに身をつくろっていた羽織を取られて
懐中物奪われるか、食を探して歩いているうちに悪者の餌食となって
無一文の丸裸にされるのが常だった。
「荒縄と古手拭にて陰部を隠し、印半纏一枚のみを来て職を求めに来たりしもの」
が再々みられたが警察は「窮民保護無能力」で手をこまねいているだけだった。
東京市内一日の雇用数600余人、解雇数800余人、失業で東京を退去する者200余人
であるから、一日に400余人 失業者が東京で増加している。

 

■ 登美子の死

1909(M42)3月 東京で腸チフスに罹患し生死の境を彷徨っていた弟 亮蔵が小浜に帰り
           以後 母と交代で登美子の看病にあたる。

        4月13日 弟に辞世のうたをおくる。

  父君に召されていなむ とこしへの 春あたたかき蓬来のしま

        4月15日 登美子 死去  29才9ヶ月  法名 登照院妙美大姉

 登美子の死から30分経たぬうちに次兄銓次郎が俥でかけつけ
 登美子の布団、着物、日用品、雑誌、ノート、手紙類を庭に投げ出し焼却した。
 弟 亮蔵はそのうちノート三冊を拾い上げ懐に隠した。
 それが今日 登美子研究の基礎資料となっている「大ノート」「中ノート」「小ノート」の三冊。


■ 鉄幹と晶子の挽歌

  その人は我等が前に投げられし 白熱の火の塊(かたまり)なりき           鉄幹

  この君を弔ふことはみづからを 弔ふことが濡れて欺かる


1906年病のため東京から京都へ去った登美子を翌年8月に想いうたう

  百合の花しらしら咲きぬそのごとく 我等が恋の清く完けむ   鉄幹と登美子の関係

  背とわれと死にたる人と三人して 甕(もたひ=かめ)の中に封じつること       晶子

  亡き友を悲し ねたしと並べ云ふ このわろものを友としゆるせし

  君ゆゑにもろともの幸うりすてむ わがひもありき片へ心に


 (コメント)
 10代の頃の溢れんばかりの知的好奇心から源氏物語をはじめ多くの古典の薫陶を受けて、
 人間の根元的な営みの真の美しいものを華麗に謳った晶子は、小さい頃より商売の最前線にいて
 経済観念のしっかりした生活力の旺盛な女性でもありました。
 対する登美子は由緒有る武家の出で、その抑制の利いた歌と生き方から
 彼女の滅び行く者の美意識を感じます。
 二人の才能豊かで対照的な女性たちが最後まで愛した鉄幹とともに、明治という時代に巡り会った彼らが
 互いに競い合って残したものは今も輝き続けています。
 芸術も又、時代の様相を反映したものなので
 明治という新しい時代だからこそ花開いたロマン主義芸術の日々なのでした。。

■ 与謝野鉄幹と晶子の死

   □1935(M10) 寛(鉄幹)死去 62才

       墓碑銘  知りがたきことも大方知りつくし 今何を見る大空を見る

   □1942(M17) 晶子 死去 64才(脳血栓後の狭心症)

        墓碑銘  難波津に咲く木の花の道なれど 葎(むぐら)しげりき君が行くまで

     ※ 多摩墓地に眠る



   晶子の足跡を訪ねて大阪にて
                   (晶子の足跡を訪ねて大阪にて)

 ◇ 旅について
年に2回家内と京都に旅しています。
もう二十年来の定宿があり、行くとお帰りなさいと迎えてくれます。
そこは黒谷にほど近いところで近くを散策すると山川登美子の気配を感じます。
私にとって旅に出るということは過去に生きた人たちに会いに行くことなのです。
鉄幹や晶子が歩いた場所を訪れると彼らに会えるのです。
家内と二人一日二万歩も歩いたりします。
名所でご馳走を食べる旅ではなく日常的な場所を歩き地元の方とも接しよく親切にしていただきます。
時には時間が惜しいのでコンビニで買ったお昼を野原で食べたりすることもあります。
 ◇ これからについて
引退したら家内と二人大好きな京都に引っ越して立命館で勉強をやりたいという夢があります。
夢がある人生は幸いと思っています。


  
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