9 2005/01/23
その1
(午後の雑談会のお終いの言葉)
幸いなことに今は大勢の方に声をかけていただいて
お陰様で呆ける暇もなくあちこち出かけています。
私は人生を5年区切りで考えているので
お声がかかるなら75まであと2年頑張って
その時元気ならまた5年頑張ろうと思っています。
皆さんと一緒に勉強出来ることがとても楽しくて
ありがたいと感謝しています。
皆さんとは同じ床の上に立っていますので
どうぞ遠慮なさらずに何でもおっしゃって下さい。
与謝野晶子(白萩の君)と 山川登美子(白百合の君) 資料No.18,19,20
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■ 1899(M27)浪華青年文学界堺支会に晶子入る。
(機関紙の執筆者には永井荷風、河井酔茗、与謝野鉄幹ら)
■ 河井酔茗の作った短歌会新星会に晶子入り与謝野鉄幹、山川登美子も。
■ 1900(M33)4月「与謝野鉄幹「東京新詩社」創設、機関紙明星発行。
発行人 林 滝野(鉄幹夫人) タブロイド判16P 6銭
1900(M33)正月 堺支会の懇親会で河野鉄南の男女平等の対応に感動した晶子は
鉄南にその後8ヶ月におよそ30通の手紙を書く。
やわ肌のあつきちしほにふれもみで さびしからずや道をとく君 ←おそらく鉄南と思われる
(コメント) 写真の鉄南は優男です
河井酔茗、鉄南と共に明星の同人になる。
肩あげをとりて大人になりぬると 告げるや文のはづかしきかな (初投稿 2号に)
山川登美子の名も競うように明星にのる。
髪ながき少女と生まれ白百合に 額は伏せつつ君をこそ思へ
■ 山川登美子
1879(M12)福井小浜に旧酒井藩側用人の山川貞蔵の四女として誕生。
父は廃藩置県後に出来た銀行の頭取で裕福な家庭であった。
1895(M28)大阪梅花女学校(お嬢様学校)に入学。
1898(M31)卒業後も姉の婚家に寄寓して母校の事務を手伝っていた。
1900(M33)6月明星2号から社友に。
同月梅花女学校に研究生として入学。英語を学ぶ。
■ 1900(M33)8月 鉄幹「明星」の販路拡張のため来阪。
鉄南につれられて晶子 北浜の宿に鉄幹を訪ねる。その折り山川登美子を紹介される。
星の世のむくのしらぎぬかはかりに 染めしは誰のとがとおぼすぞ 晶子 あたらしくひらきましたる歌の道に 君が名よびて死なむとぞ思ふ 登美子
■ 同年 11月 京都永観堂を3人で訪ねた後に栗田山の辻野旅館に宿泊。
晶子、登美子共に鉄幹に想いをつのらせてゆく。
京の宿に御手放ちしをまどかなり 恋の別れか歌の別れか 与謝野鉄幹 もろ羽かはし掩ひしそれも甲斐なかりき うつくしの友西の京の秋 晶子
前髪のみだれし額をまかせたる その夜の御胸ああ熱かりしそれとなく紅き花みな友にゆづり そむきて泣きて忘れ草摘む 登美子
矢の如く地獄におつる躓きの 石戸も知らず拾ひ見しかな
■ 登美子の結婚
1900(M33)12月 絵画の道に進みたかったが父の許しを得られず、親の決めた結婚のため
若狭に戻って、一族の山川駐七郎
(元メルボルン領事館書記官で東京銀座の煙草商会支配人)に嫁ぎ
翌年4月上京して夫の両親の住む家に入る。(22才)
岩にあてて小百合の花をうち砕き 此世かくぞと知り初めし今日
いつしかに胸のゆらぎはおぼえけむ 読むに日浅き集 みだれ髪 (未発表)
人知れず涙ぬぐひて紅さしてくもる鏡に何の手すさび
■ 晶子の恋と結婚
1901(M34)
1月 鉄幹に誘われ栗田山 辻野旅館に今度は二人きりで宿泊。
黒髪の千すじの髪のみだれ髪 かつおもひ みだれおもひ みだるる
君さらば栗田の春のふた夜妻 またの世まではわすれ居給へ
道を云はず後を思はず名を問はず ここに恋ひ恋ふ 君と我と見る
京の山こぞめ しら梅 人ふたり おなじ夢みし春と知りたまへ
4月 鉄幹 二人目の妻と別れるという知らせが届く
5月
春みじかし何に不滅の命ぞと ちからある乳を手にさぐらせぬ (明星12号)
6月6日 上京する
狂ひの子われに焔のはねかろき 百三十里あわただしの旅
今ここにかへりみすればわがなさけ 闇をおそれぬめしいひに似たり
8月15日みだれ髪(399首)出版 恋愛至上宣言 ロマンと自我の解放
表題 みだれ髪 については二つの説がある
○ 1904年1月 くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪 かつおもひみだるる
○ 和泉式部 黒髪のみだれもしらず うち臥せば まづかきやりし人ぞこひしき
(和泉式部集 二十七)
清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき
むねの清水あふれて つひに濁りけり 君も罪の子 我も罪の子
かたちの子 春の子 血の子 ほのほの子 いまを自在のはねなからずや
経はにがし春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌うけたまへ
いはず聴かず ただうなづきて別れけり その日は六日 二人と一人
なにとなく君に待たるるここちして 出でし花野の夕月夜かな
森鴎外、上田敏、河井酔茗、薄田泣菫、高山樗牛らや佐々木信綱一派から
「娼妓、夜鷹輩の口たすべき乱倫の言を吐きて淫を勧めんとする」などの酷評されたが
若い人たちの圧倒的な支持を受けて、このあと新詩社社友は200余人に増えた。
晶子はそれに応えて「小扇」「舞姫」「菊之華」を世に送った。
(コメント)晶子はみだれ髪のもうけを明星につぎ込んだそうです。
鉄幹は芸術的な魅力たっぷりでしたが生活力はなくて2度の離婚もそれに起因していました。
10月1日 鉄幹と晶子 結婚
■ 山川登美子の悲劇の結婚生活 〜 これ以降様々な挽歌を詠むことになる 〜
1902(M35)春 夫が肺結核で伊豆へ転地療養。
伊豆の海に ふたりが影は歌か画か 相ほゝゑむに波のしづけき←永遠の別れの前のひととき
夏 故郷の小浜に帰る
息しろくなりにける哉ふる袷 すそほころびて君病あつき ←消えゆく夫の命に寄り添って
12月22日 夫 肺結核で死去(32才) 登美子23才で寡婦となる。
1903(M36) 1月13日 東京山川家から除籍。生家に復籍。
7月 明星37号に「夢うつつ」と題して10首発表
<詞書> 去年より ひとり地にながらへて 悲しさと寂しさと取り残された心細さ
君は空にさらば磯回(いそめ)の潮とならむ 月に干て往む道もあるべし
いかならむ遠きむくいかにくしみか 生まれて幸に折らむ指なき
帰り来む 御魂と聞かば凍る夜の千夜も御墓の石いだかまし
紅もまた消えゆくものか我のために この地この空恋は残るに
1904(M37) 4月 鉄幹の勧めで 日本女子大学校英文科 予備科に入学(25才)
■ 1905(M38) 恋衣(山川登美子・増田雅子・与謝野晶子 共著)刊行
154頁 10月3版
増田雅子は大阪薬問屋の娘。白梅の君。
鉄幹に日本女子大を勧められて上京。
登美子・・・・・ 白百合(59) 夢うつつ(10) 他(62) =131首
わが息を芙蓉の風にたとへますな 十三弦ひと息に切る (白百合)
燃えて燃えてかすれて消えて闇に入る その夕栄えに依らずや君 (夢うつつ)
髪ながき少女とうまれ しろ百合に 額は伏せつつ君をこそ思へ (白百合)
狂ふ子に狂へる馬の綱あたへ 狂へる人に鞭とらしめむ (他)
われ病みぬ ふたりが恋ふる君ゆゑに 姉をねたむと身をはかなむと (他)
木屋街は灯かげ祇園は花のかげ 小雨に暮るる京やはらかき (白百合)
雅子 ・・・・・ みおつくし(114)
しら梅の衣にかをると見しまでよ 君とは言わじ春の夜の夢 (巻頭歌)
わが面の母に肖るよと人いへば なげし鏡のすてられぬかな
われ思へば白きかよわの藻の花か 秋をかなたの星うけて咲かむ
しら梅の朝のしづくに墨すりて 君にと書かば姉ににくまんか
晶子 ・・・・・ 曙染(148) 詩(6)
春曙抄(しゅんじょしょう)に伊勢をかさねてかさ足らぬ 枕はやがてくづれけるかな
海恋し潮の遠鳴りかぞへては 少女となりし父母の家
鎌倉は御仏なれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな
ほととぎす治承寿永のおん国母(こくも) 三十にして経よます寺
■ 恋衣の出版で登美子と雅子は停学処分になる
歌よみて罪せられきと光ある 今の世を見よ 後の千とせに
生れ来て母の膝より習い得し 歌と答へんつたなくあるも
あなかしこなみだのおくにひそませし いのちはつよき声にいらへぬ
師と友とわれとし読みてうなづかば 足るべき集と智者達にいへ
その後、登美子は病に倒れ・・・ → その2へ