先生にとっての青春 戦争が終わって一番嬉しかった事は・・・ 「これからは何でも喋れる!」 ということだったそうです。 その頃の若い人たちは皆いかに生きるか模索して哲学書を一生懸命読んでいました。 中学5年の16歳の時、詩人になろうと思い勝手に退学届けを出してしまいました。 父親に手を突いて謝った時怒られる事なく一言だけ言われたそうです。 「稲は実れば実るほど頭を垂れる。そのことを忘れないでくれ。」 たまたま大学生が有楽座に民芸の宇野重吉が出ている「破戒」に連れて行ってくれたことが きっかけで教師になりたいと思いました。 当時教師不足でしたので17歳で蕨の第一小学校の代用教員になることができました。 先生になって毎日とても楽しくて、子どもと手をつないで帰りました。 みな貧しくても心豊かに生きていた時代でした。 二年半小学校の先生をして辞めてから大学に入り 子供たちとの「また帰って来てね」という約束どおり中学の教師となって また蕨の子供たちのところに戻ってきました。 いつも大事な事は生徒に教えてもらいました。 その生徒の一人が自立する際「いつまでも美しく生きてください」と言われたことを 胸奥に刻ませてもらっています。
そして・・・ 先生は戦争で大好きだったお兄様を亡くされました。 生前 姉となる人に 「もし戦死することがあったら 僕は国のためには戦死しない。 罪を償うために戦死する。」と語り 戦場で戦友に「今日も討伐に行って鉄砲を撃った。 一度も会った事のない人、憎んだ事のない人を殺した」と言っていたそうです。 討伐から帰隊するたびに酒保で甘いものを買って 営庭のはずれの草叢に供えて読経していたと 生還された戦友の方が伝えて下さったそうです。 姉と慕っていた兄の恋人だった人も早世し 「時を大切にしなさい」という言葉を残しました。 その言葉を胸に日本が二度と同じ過ちを繰り返さないよう皆さまとしっかり学んでゆきたいと仰っています。 先生は今も青春を生きていらっしゃるのだと思います。 |
明治後期、独占資本主義体制の整備が進む中で
高等教育機関で教育を受ける事が立身出世するための必須要件となった。
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旧制高校から帝国大学へ受験競争激化
日露戦争(1904.2〜05.9)後、ポーツマス条約に反対する頃から
大正デモクラシーが生まれ、かかる風潮に疑問視する青年たちが出現。
太平洋戦争後よりも日露戦争の後の方が失った人と失わなかった人の差大きかった。
国のために戦って命を落とした人、その遺族の将来など個人の存在を考える時
国家・社会がなにより大切というモラルの中で自分自身の生き様を問いかけていった。
一番価値あるものとして「精神の貴さ」(=一高の精神)がとらえられた。
立身出世や成功を求めるための知識を是とせず
学問・文化・芸術そのものに価値を認める思考が広がる 教養主義
自己の教養を高めることが人格の向上につながる 人格主義
教養主義と人格主義の一体化はヒューマニズムの核
阿部 次郎
美学者,哲学者,評論家
1883−1959(M24〜S18)
父の 県視学転任にしたがって山形中学に転校、
校長排斥運動で放校されて上京、京北中学へ。
一高から東京帝国大学哲学科へ。
夏目漱石の門下に。
1914(T3)「三太郎の日記」出版。
翌年「三太郎の日記第二」1918(T7)に「合本・三太郎の日記」
一人の平凡な青年、青田三太郎の内面生活の記録を哲学的日誌の形で綴った作品。
真摯な内省から、自分は偉くない自覚し、だからこそ<真・善・美>を求めて
積極的に生きていこうという哲学的思いを述べている人生論。
長い間多くの青年に青春のバイブルとしてとして愛読された。
その後、リップスの倫理学を学び『人格主義』(1922年)を著し
雑誌「思潮」の主幹として、教養主義、人格主義の担い手として活躍する。
※倫は仲間、理は道理・道筋 → 倫理的に考える学問が倫理学
※夏目 漱石のエゴイズムを越える個人主義
自己本位の立場に立ち個性を発揮し自己の道を歩むとともに
他者の個性や生き方を認めた倫理的価値の尊重に貫かれた個人主義。
常に自己の内にあるエゴイズムを越える倫理を追求しようとした。
年代 年齢 出来事 1913(T2) 30 慶応大学で美学を講義 1914(T3) 31 「三太郎の日記 第一」 東雲堂より出版
1908から凡そ6年間の内面生活の記録1915(T4) 32 岩波書店より 三太郎日記 第二」 出版 1917(T6) 34 日本女子大学 文学原理論 講義 1918(T7) 35 岩波書店より 「合本 三太郎日記」 出版 1923(T12) 40 東北大学教授 美学担当 1950(S25) 67 角川書店で再刊
<自序より>
此書にあつめられた文章はあらゆる欠点あるに拘らず
@真理を愛する心と真理を愛するがために自分の矛盾、欠乏をたじろがずに
正視した観照の記録
A矛盾・暗黒との観照でなく、暗黒に在って光明を求める者の叫びである
目序・断片
1 痴者の歌 11 別れの時 2 ヘルメノフの言葉 12 影の人 3 心の影 13 三五郎の詩 4 人生と抽象 14 内面的道徳 5 さまざまなおもひ 15 生存の疑惑 6 夢想の家 16 個性 芸術 自然 7 山上の思索 17 年少の諸友の前に 8 生と死と 18 沈潜のこころ 9 三様の対立 19 人と天才と 10 蚊帳 20 自己を語る
註 かなづかいは現代風に直してあります
断片
青田三太郎は机の上にほおづえをついて二時間ばかり外をながめていた。
そうして思い出したように机のひきだしの奥を探って三年ぶりに日記を取り出した。
三太郎の心持が水の上にしたゝたらした石油のように散ってしまって、これはこう考えている、
おれはこう感じているということばさえ、素朴なる確信の響を伝ええぬようになってからもう三年になる。かれはその間、書くとは内にあるものを外に出すことにあらずして、むしろペンと紙との相談ずくで空しき姿を随所に製造することだと考えてきた。
日記の上をさらさらと走るペンのあとから、「うそつけ、うそつけ」というささやきがすずめを追うたかのように羽音をさせて追いかけて来るのを覚えた。三太郎はその声の道理千万なのがたまらなかった。わからぬのを本体とする現在の心持を、まとまった姿あるがごとくに日記帳の上に捏造して、暗中に模索する自己を訛伝(かでん)する、後日の証拠を残すようなことは、ふっつり思い切ろうと決心した。
そうして三年の間雲のごとく変幻浮動する心の姿をながめ暮らした。
しかし三年の後にも三太郎の心は寂しく空しかった。この空しく寂しい心はかれを駆ってまた古い日記帳を取り出させた。とりとめのないこのごろの心持をせめてはけいの細かな洋紙の上に写し出して、半ば製造し半ばは解剖してみたならば、少しは世界がはっきりしてきはしまいかと、はかない望みがふと胸の上に影をさしたのである。日記帳のそばには三年前のインキのあとを秩序もなく残した白い吸取紙が、春の日の薄明かりにやや卵色を帯びて見えている。三tなろうは基盤に割った細かなけいの上に、細く小さくペンを走らせていく。
2 痴者の歌
世の中にできない相談ということがある。とうていいかにもすることができぬと頭では承知しながら、情においてこれを思い切るに忍びぬ未練がある場合に、人は自分の前に突っ立つ冷ややかな鉄の壁に向かってできない相談を持ちかけがちなものである。できない相談を持ちかける心持は「痴」の一字で尽くされているほどはかないものに違いない。十年壁に面して涙を落としていたところで冷ややかな壁は一歩でも道を開いてくれそうにもない。実攻の方面からいえばできない相談は無用なる精力の徒費である。ただできない相談を持ちかけずに済む心とこれを持ちかけずにはいられぬ心との間には拒むべからざる人格の相違がある。
実現を断念した悲しき人格の発表―――ここに「痴」の趣がある。痴人でなければ知らぬたそがれの天地がある。
5 さまざまなおもひ
(前略)僕は自分がつまらない者であることを忘れたくない。
併し自分のつまらないことさへ知らぬ者に比べれば、僕らは何といふ幸な日の下に
生まれたことであろう。
此の差はソクラテスと愚人との差である。此の事を誇りとしないで
又何を誇りとしようぞ。
資本主義の中で豊かになることが生活の目的になってゆく
果たしてお金や物は人生の目的的な存在でありえるか?目的でなく手段なのでは?
財貨でなく内なる力で人は生きる、内面の自己の確立
9 三様の対立
人はわれ持てりという。余はわれ持たずという。人は確信し宣言し主張する。余は困惑し逡巡し、みずからの迷妄を凝視する。人はニーチェのごとく、自覚の高みにあって迷える者を下瞰する。余はふもとに迷いてはるかに雲深くき峰頭を仰ぐ。人は一筋に前へ前へと雄たけびする。余は前へ進まむとして足を縛られたるがごとき焦燥に捕らえられながら、みずからのふがいなきに涙ぐむ。人は日の光のあざやかに照り渡る中にあって占有と労働との喜びに満ちあふれている。余は霧のごときものの常に身辺を囲繞してはれざることを嘆ずる。かれらは楽観し余は悲観する。かれらは肯定し余は否定に傾く。余をして悲観と否定とに傾かしむる者は余の生活と運命とを支配する不思議な力である。不思議なる力の命ずる限り、余はこの苦しき生活に甘んじて、身辺方寸の霧を照らすべき微光を点じて生きながらえなければならぬ。
ああ、しかし暗き否定の底にも洞穴に忍び寄る潮のごとくかすかににじみ来る肯定の心よ。
思いがけもなく、ひそやかに、、ほのかに、夕月の光のごとく、疑惑の森ににおい来る肯定の歓喜よ。この悲しき中にもあたたかなる思いは、強暴なる肯定者に奪われて、ひとり脆弱なる否定者にのみ恵まるる人生の味であろう。
啓蒙言=内面的道徳自律する心の働き
14 内面的道徳
自分にとっては自明なことでも社会にとっては自明でないことがある。自分にとって自明なことと、社会のとって自明でないことと―――この二つが永久に並存して相互に関係しないものならば問題はない。しかし社会は社会みずからにとって自明ならぬことはすべて許すべからざることと推定する。個人にとって自明にして、社会にとって自明ならむ場合に、個人が自己にとって自明なる道を進まむとすれば、社会はこれに干渉し、社会はこれを圧迫する。ここにおいて個人は自明の道を進まむがために社会と多々書く必要を生じる。みずからのために言う必要なくして、社会のために言わなければならぬ必要に逢着する。自分はこれに名づけて啓蒙言という。内面的道徳のセツは自分の啓蒙言である。
16 個性 芸術 自然
私たちは恋愛によって成長する。恋は成っても破れてもとにかく恋愛によって成長する。
17 年少の諸友の前に
私は中学校から高等学校にかけて内村鑑三先生の文章を愛読した。できるならば先生に親炙して教えを請いたいと思っていた。これは私のいた高等学校の位置と便宜の上からいって決してできないことではなかった。私の友だちはだんだん先生の私宅を訪問したり、日曜日の聖書講義に出席したりするようになってきた。しかし私は私の個性の独立が早晩明瞭に発展してついに先生に背かなければならぬ日が来る事の恐ろしさに、先生の親しいお弟子になる気はなれなかった。思想の分立はついに生活の分立となるはまことにやむをえざる自然の経過である。しかし、この最後の日の予想は――先生の感ぜらるべき寂しさと、私の感ずべき呵責との予想は、私の勇気をくじいた。私は勇気ある諸友の断行をうらやみながら、自分は依然として先生の文章にのみ親しんで、遠くから隠れて先生の威化に浴していた。
私は私のとった態度を他人にすすめよおうとは思わない。今の私がほんとうに崇拝すべき人を発見するならば、あのような痴愚にして卑怯な態度をとらずに逡巡しながらもその人の膝下にひざまずくに違いないと思う。しかしその時分にはどうしてもそれができなかった。そうしてそれができなかった心持が今でもまざまざとw足しの記憶に残っている。
今になっては事情が転換した。そうしてこの転換した事情の上から、私は近頃またあの時分の心持をしみじみ思い返してみるようになった。私の性格からいえば、私は一生かかっても先生のようなセンセーションを起こす事ができないにきまっている。しかし小さくかすかながらもとにかく私は先輩のひとりになった。私の周囲には二、三の「迷える者」がいる。したがって私は先輩の虚名に伴う特殊の離合を経験すべき地位に置かれている。かつて内村先生のために考えてあげたことが、今は自分のために考えなければならないようになった。どんな意味においても別離は寂しいものである。
そうしてかつて求めるには怯懦(きょうだ)であった心は、今は与えるに逡巡する心となって私に隠遁の誘惑を投げているようである。しかし私ももう羞恥の情にのみ支配される紅顔の少年ではない。私も少しは強くなった。私はもう求める者の身辺にあることを恐れない。詳しく言えば、逡巡はするが退却はしない。はにかみはするが隠遁はしない。求める者を身辺に吸収することをきらうが、求める者の自然に集まって来ることをば恐れない。
(中略)
これまでも時分の自分の奥底の問題に触れるごとに、自分は常に孤独であることを感じてきた。先輩も友だちも父兄も愛人も自分の奥底にはなんの触れるところがないことを感じてきた。そうしてこの孤独に堪えてきた。私は今後といえども、この孤独の心をもって求める者の去来を送迎するの寂しさに堪えることができることを信ずる。求める者の到着を迎える空しい花やかさも、去るものの遠ざかり行く影を見送る切ない寂しさも、sの時々の過ぎ行く影を投げるのみで、私の本質的事業にはなんの影響するところもないことを信ずる。「求める者」が隊をなして自分を囲ぎょうしても、私の魂はついに孤独である。「求める者」の群れが嘲罵の声を残して遠くさっても私は常に私である。
私は「求める者の群れ」を持っていない。そうして私の周囲にいる二、三の友人との間に、しばしば小なる別離と小なる再開とを経験する。そうしてさらに大なる別離と再会との心を思う。来る者を拒まず去るものを追わざるほどの覚悟はすでに私にできていると信ずる。願わくば去る者を送るに祝福をもってするほどの大いなる心を持ちたい。少なくとも思想の上でその先輩に背かないような後輩は、要するに頼もしくない後輩に相違がないのだから。
18 沈潜の心
自己の否定は人生の肯定を意味する・・・古今東西の優れたる哲学と宗教とは
凡て悉く自己の否定によって人生を肯定することを教へてゐる。
・・・キリストは死んで蘇ることを教へた。
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