4-7-2  2005/12/11


ロシア革命の起こった状況と経緯
産業革命に乗り遅れたロシアでは永年の皇帝政治により大多数の農民達は
皇帝を信奉しつつ酷い搾取に苦しめられていた。
フランス資本が入りようやく工業化が進みつつあったが国家は豊かでなく
第一次世界大戦でますます疲弊し国内の不満はストライキへと向かう。

ロマノフ王朝が倒れた後、産業資本家たちが臨時政府を作り戦争継続を推すが
兵士と労働者の組織ソヴィエトが七月蜂起で反旗をひるがえす。
資本家達の反革命の動きとソヴィエトの台頭のせめぎあいで国情不安定の中
理想を胸に抱いたレーニンが革命のためにロシアに戻ってくる。


ロシア革命(第2次)前の状況 (資料No.11)

戦争継続困難な訳

1915(T4) 第一次世界大戦の翌年、すでに戦争継続は困難になっていた

革命前のロシアは中世的な国家であったので、国の財政を皇帝と貴族が握っていた。
民衆はその下で様々な苦労を強いられて国の財力は豊かではなかった。

当時のロシアは純然たる農業国であったが食糧不足になった。
兵役の義務は農民にあった。(労働者は工業国になるために優遇されて兵役なし)
政府から留守家族手当が出ていたが工業製品はまだ農村に行き渡ってなく
戦争で民事の輸送力が足りなくなって益々農村が金余りになった。

国内の状況

9月 戦争継続困難と社会不安からストライキ20万人参加(3月の13倍強)
国会の2/3が反政府勢力になった(自由主義、立憲民主党が主体)

当時憲法はなかったが日露戦争の1905年国会が生まれる
ロシアは日本との戦争継続が困難になり講和条約を結ぶが、一方で革命が起こっていた。
その時の革命の指導者層が分裂した。指導者の中心は労働者階級出身だったので
農民は革命に対して無関心であった。
支持基盤が磐石でない専制政府が自由主義者の要求に応えて国会を開設した。
資本家階級の自由主義者が中心となって運営されていた。

資本家達にとってストが頻発することにより生産力が落ちることはとても困るので
現政権のままでは危ないと国会が動き出す。

1917(T6)3 ペテログラード  8日 7〜8万人労働者仕事放棄しパン屋の前に行列
         (当時の首都)  9日 15万人ストライキ
                    10日 政府命令 集会禁止、労働者は職場復帰
                        不服従者は徴兵猶予の特権剥奪

    (当時のペテログラード労働人口40万人 ストライキ参加者20万人余)
    (首都モスクワからペテログラードに1712年遷都されて1918年再びモスクワへ


三月革命(1917年) 〜帝政から共和制へ〜

ソヴィエト(労兵会)(日本語訳は評議会)が誕生

1917.3.12 ペトログラード駐留国軍が反乱を起こして革命側につき労働者と軍により中心部占領
       政治犯が釈放されると、政府の閣僚達が次々と逮捕される。内閣総辞職。

  ※日露戦争当時の第一次ロシア革命の時にもソヴィエトが出来たがその時とは少し意味が違う。
   昔は 労働者のみが集まった工場の代表者会議。

   ソヴィエトが革命を引っ張ってゆくことになる。

ロマノフ王朝滅亡

  3.14 皇帝退位と皇太子への譲位を要請
      皇帝、弟への譲位で同意 → ミハエル大公拒否

  3.16 ニコライ二世退位

権力の二重構造が生まれる

   3.14 国会(自由主義者、資本家の代表)内に
      
                国会臨時執行委員会(自由主義者系 産業資本家中心) 出来る。  
                         ↑
                         ↓
                ソヴィエト執行委員会(労働者と兵士中心) 誕生。 

産業資本家中心の共和制へ

臨時政府成立  →  立憲民主党+社会革命党右派(ケレンスキー)ソヴィエト側から一人
                                      
               産業資本を代表する人たちが主体となって
               憲法に基づいた国造りに期待が集まった。

この3月革命が後に否定されて11月に革命が再度起こり社会主義国家になる。
産業資本家達が中心となり皇帝政治を終わらせたので後にブルジョア革命と言われた。

臨時政府の戦争継続策

ロシアの産業資本に一番お金を投資したのがフランス。次がイギリス。
それらのドイツと戦っている国の支援なくしてはロシアの工業化は進まない。
臨時政府は国内ではなく、国外から正規の政府と認められた。

イギリスでもフランスでも国内では戦争に対して賛否が分かれた。
帝国主義国家ドイツと戦っている自由主義国家ロシアを支援しようと戦争目的に利用。
アメリカがいち早くロシア政府を認めて3億ドルの借款。(金余りで海外投資先を探していた)

 私は国益という言葉を使うとぞっとします。
 国民の利益でなく
 国益とはいったい誰が利益を受けるのか?
                              善方


ソヴィエト (資料No.12)

兵士と労働者たちの組織

戦争目的=祖国防衛、無併合、無賠償

主流派・メンシェヴィキ 反主流派・ボリシェヴィキ (レーニン派)
名前の意味は少数派だが、
人数では主流派
ボリシェビキはメンシェヴィキ社会革命党にくらべ少数派であったが、人事と要職を握ったので「多数派」を名乗った。暴力による革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制が特徴である。(ウィキペディアより)
社会革命党(左派)
ロシア社会民主労働党(右派)
ロシア社会民主労働党(左派)

レーニンの四月テーゼ(提議)

ドイツは対戦国であるロシアの混乱を図って亡命中のレーニンを自国を通らせて
ロシアに帰国させた。レーニンもそれを利用した。

4.16 レーニン「四月テーゼ」発表

   全ての権力をソヴィエトへ 
   現在の臨時政府は支持しない
   議会主義的共和国ではなく、労働者、農民のソヴィエト共和国へ
   地主所有地全て没収

    ↑
    ↓
  反論起きる

  メンシェヴィキはこれについては社会主義者ではまだ不可能で時期尚早で
  今のロシアを変えてゆくことが可能なのは立憲民主党・自由主義者であると考えた。
  ドイツがロシアに送り込んだスパイという説が機関紙に載ったりした。
    +
  社会革命党はメンシェヴィキと手をつないでブルジョア革命を支えてゆこうという対応。

臨時政府の対応

5.1   戦争について「ロシア国民は勝利を得るまで戦争する」
     ということを公文書にして連合国に送り込む。

5.3〜4 戦争反対のデモが軍隊とソヴィエトによって起きる
     臨時政府はソヴィエトが優位になるのを恐れて公文書を送った外務大臣罷免。
     ソヴィエトの支持を得るためにソヴィエト側から大臣を任命する。

「七月蜂起」とその後の動き

6月中旬 ペトログラードで1000人近く全ソヴィエト大会が開かれた。
そのうち700〜800人がメンシェヴィキと社会革命党で
レーニン率いるボリシェヴィキは100人ほど。 → 臨時政府支持、戦争継続

それに対して軍人労働者が反旗を翻したのが七月蜂起
プラカードには「戦争反対」「全ての権力をソヴィエトへ」

臨時政府は7月はじめに連合国の強い要請で東部戦線で攻勢をかけたが
ドイツ軍に打ち破られてしまい、さらに労働者兵士のデモが激しくなる。
政府はドイツ軍と戦っていた前線の兵士を呼び戻し鎮圧しようとする。

7.21 政府はソヴィエトを押さえるために首相をソヴィエト出身のケレンスキーにする。
    社会主義者の代表が数多く新しい内閣に入った。

                  

      臨時政府とソヴィエトの融合により二重権力構造の解消

                  

軍の上層部と立憲民主党(力を失いかけている資本家達)が手を握り反革命の動きへ。
反政府活動を起こして前線の部隊がペトログラードに攻め込んでくる。

                  

ケレンスキー内閣は反革命勢力と正面切って戦わなければならなくなる。
ケレンスキーは身勝手にも非合法化したボリシェヴィキの援助を要請する。

                  

国情不安定、反革命軍がペトログラードに近づいてくる。
モスクワで選挙が行われて、ボリシェヴィキ派が圧倒的多数当選する。
ロシアの経済は益々混乱と貧困に陥ってくる。
今までになくボリシェヴィキ派に集まってくる。

                  

ロジャンコ国会議長 曰く
 「われわれは、むしろドイツ軍が首都を占領することを希望する。
   彼らは、わが国体を破壊するかもしれないが、同時に
   ソヴィエトの息の根をに止めてしまうだろう。」
9月に入ると資本家たちは革命の進行よりも戦争の敗北を望んだ。

レーニン再びロシアに戻ってくる

10.20 弾圧され国外に逃亡していたレーニンが10月に戻れる状況になり戻ってきた。

ソヴィエトの内部に軍事革命委員会を作る。
正式に軍事力を持って政府を倒そうと画策する。  ←11月革命の芽



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