4-6  2005/11/27


 自民党の改正憲法草案が出てきましたが
 すごく気になっていることは、
 現憲法では人権の問題で公共の福祉に反しなければ
 というのがありますが、草案の方には
 公共の秩序に反する者にはしかるべき罰が与えられる
 ということが出てきています。
 それはつまり今の体制を乱すものということで
 現代史を学ぶことも体制批判に繋がるということで
 もしかしたら自由にこういう勉強会も開けなくなるかも
 と心配しています。
 思想、学問、信条の自由がなければ
 自由な社会はありえません。
 これからどうなるかわかりませんが
 憲法が改悪されないよう見守りたいと思っています。
 
日露戦争後の日本と世界の状況
日露戦争後、日本が中国朝鮮に対してどのようなことをしてきたのか
そして日本が何故植民地を拡大しようとしたのか、どのようにやったのか
当時の世界情勢はどうなっていたのか検証します。

朝鮮農業に対して日本がしたこと

日露戦争後、日本は韓国の植民地化を強め、1905年に外交権を奪い、1907年に皇帝を退位させ
抵抗勢力を軍隊によって鎮圧し1910年に韓国を併合し、朝鮮総督府を設置して武力を背景に
植民地支配を推し進めた。

 この棉花増産の仕打ちには、おそろしい権力の強制があったことを忘れてはならない。
このことは、大多数の日本人は知らないかもしれないが、朝鮮総督府の小作官をしていた、
佐久間健一の報告によると、朝鮮で棉作の奨励をやったのは「併合」前からであるが、
「併合」後は、憲兵や巡査までを動員して、強制的に栽培せしめたのであった。
のみならず、棉を栽培しない農家にして、麦や大豆をつくっているものは、
強制的に、大豆や麦を足で踏み倒してしまったことも一再ではなかった。
そして最後には、官憲の意を体して綿をつくるものには奨励金を交付したくらいであった。
 その、最も極端な場合には「笞刑を以って棉花栽培を強制した」といって
その実見者の談を引用し、「今日でも綿作奨励に於ける斯る強制は、その態様こそ異なれ
依然として存在する」ということであった。
 たとえ強制による増産にしても、それが農民の利益になれば、まあ我慢が出来る。
ところが朝鮮ではそうはいかなかった。朝鮮では棉花の販売にも強制があった。
農民が自分でつくった棉で手織り木棉をつくろうとしても、棉花の自家消費量には
厳重な制限(一人当たり年十斤以内)があり、この制限量以上のものは必ず
共販制にしなければならない。しかも、この共販制の買い取り価格は公定で、
この価格がきわめて安かった。このため、棉を作る朝鮮人が自家生産をやれずに
高い日本製の木棉を買わされていたのである。
 養蚕についてもおなじことで、養蚕農家も綿作農家と同じく、安い公定価格による共販制と
自家消費量制限のために、養蚕業そのものがおとろえていった。
要するに、朝鮮の農業はたしかに進歩し発展している。
しかしその成果はみな日本に吸い取られてしまったのであった。
 前に挙げた久間健一も「朝鮮農民の窮乏はすでに人々の知りつくした所である。
それは内地の農民の窮乏とは、その性質に於いて著しく異なるものである」といっているが、
これにくらべると台湾の農民の状態はいくらかましであろう。
                                     「朝鮮の経済事情」より
                        

     農作物の増産を強制し、自家消費を抑えさせて安く買って日本で製品化し
     高い値段で朝鮮に売りつけて成果は全て日本に還元させた。



  事実を知らない政治家たち ◆自民党代議士 江藤隆美発言集◆

 (1995.1.5 朝日新聞より)
 朝鮮半島に対する植民地支配で「日本はいいこともした」などと発言し
 総務庁長官を辞任した自民党の江藤隆美代議士は
 「何で反省しないといけないのか。日本はそんなに恥ずかしい国ではない」
 と述べ、日韓併合条約について「(韓国)国民の総意を得て結ばれたとは
 残念ながら言えない。民族の誇りを傷つけたことは否定できないし、弾圧もした。
 ただし両国で結んだ国際条約としては成立した」との歴史認識を示した。
 その上で「米国のデモクラシーは奴隷制度とインディオ虐殺で成り立った
 という本もある」とし「(日本も韓国に)アメとムチの両方をした。ひどいこともしたが
 釜山港や仁川港をつくり、学校も五千つくった」などと述べた。

 (2002.9)
 小泉首相が北朝鮮訪問の際、日本の植民地支配を謝罪したことにふれ
 「この国の歴史がわかってないからこうなる。
  かつての宗主国に、金や謝罪を要求する国がありますか」

 (2003.1.19 朝日新聞より)
 首相の靖国神社参拝を非難したアジア諸国の対応についても
 「ロシアを訪問した首相は赤の広場で軍人の慰霊碑に参った。
  なぜ靖国参拝に文句を言われるのか。内政干渉だ。」


中国の苦悩と覚醒

列強の餌食となる中国

短期間に投資が増大。日本イギリスが先頭に立ちアメリカは出遅れる。

日本の中国に
対する投資額
日本が中国に
設立した商会数
アメリカが中国に
設立した商会数
1912年 700社
1913年 4億9千万円 130社
1919年 14億円以上 5000社 300社

 中国進出に関して日本とアメリカで結ばれた協定
             ↓
1917(大6).11 石井(特派大使)ランシング(国務長官)協定
日本の中国における特殊権益と米の門戸開放の主張を相互に承認

同年 石原借款 中国北京政府に1億4.5千万貸して北伐勢力を阻止させる

  門戸開放による中国市場への列強の経済侵略は発展途上にあった
   中国の民族資本に致命的打撃を与えた。


   ◇綿紡績業 22(T11)〜23 多くの企業が操業短縮、停止、あるいは
    外国資本に吸収合併された。

   ◇製粉業 日米豪カナダ産の小麦粉の大量流入で国内外市場を奪われ
    倒産があいついだ。

   ◇外国製日用品 (輸入総額の70%)
    農村における副業的手工業に大打撃。

   ◇農村は棉花・大豆など安価な原料供給地に。

      この時期に中国共産党 結党

立ち上がる民衆

1922(T11) 9カ国条約締結
ヨーロッパ6カ国(イギリス・フランス・イタリア・ポルトガル・ベルギー・
オランダ・)アメリカ・日本・中国

@中国の主権、独立を尊重する。領土を保全する。
 (日本は第一次大戦後山東省の権益を返還せねばならなくなった)
A門戸開放の要求
1923(12) 上記により石井・ランシング協定廃棄
1924(T13) 新しい国造りがスタート。
中国国民党第1回全国大会(於 広州)

◇国共合作(第一次)正式に成立
  国民党と2年ほど前に成立した共産党が主義主張は異なっても
  国造りのために力を合わせよう。

◇三民主義に新解釈加わる(新三民主義)
 @民族主義 帝国主義の侵略に反対し民族解放と国内諸民族の平等
 A民権主義 封建軍閥の専制に反対。民衆の自由と権利を守る。
 B民主主義 土地集中と独占資本の制限 民衆の福利向上。
1925(T14)
5.15 上海の日本資本の内外綿紡績工場の争議中に日本人監督が
    組合の指導者1人を射殺。10数名に負傷させる。

    射殺事件に憤激した学生たちが労働者支援と犠牲者救済を訴え
    街頭宣伝をしたのを租界当局が「治安を乱した」との罪名で逮捕し
    5.30裁判にかけるとした。

5.30運動(於 上海)
  約2000人の学生が労働者射殺に抗議し“租界回収”“逮捕学生釈放”
  の集会を開く。イギリス警官隊が100余人の学生を逮捕。
  南京路に集まった1万余人の学生、市民に発砲し死者13人、
  負傷者数十人を出した。この事件を契機に反帝国主義(特に反日英)
  運動が上海全市に起こる。

6.1 全市で罷課、罷市、罷工始まる。上海租界の機能も麻痺。
   租界当局は英・日・米・伊 四カ国陸戦隊を上陸させ10日までに
   死者32名負傷者57名

   三罷闘争(上海工商学連合会)は20万人参加の市民大会開催し、
   「英・日軍隊の永久撤退 領事裁判権の廃止」を含む17項目を
   租界当局の要求。 
       ↓
   中国全体にに波及。
   列強の軍隊・軍閥と衝突し流血事件多発。

7.1 広東国民政府成立 主席・汪兆銘(孫文4ヶ月前死亡)
1926(T15) 7.7 蒋介石、国民革命軍総司令官に就任。27将、北伐宣言。

   北伐軍 9ヶ月で長江一帯を制圧
1927(S2) 漢口・九江のイギリス租界で英兵と民衆との流血事件発生
激昂した民衆は両租界を実力で回収
       ↓
国民政府とイギリス政府外交交渉で2月に公式に中国の返還。

3.24 南京事件

    外国領事館・住宅・教会が襲われ 英・仏・米人6人殺害
    英・米の軍艦市内砲撃、中国人2000人を殺傷

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