三・一運動

独立運動の始まり 

第一次大戦末期にロシア革命が起こり民族自決の運動が広がり
朝鮮本土でなくシベリア、アメリカ、上海などにいる朝鮮人たちの間から
独立運動の動きがおきる。

1919年(T8)2月8日に東京の神田でキリスト教の教会で
主に朝鮮の学生たちが集まり、朝鮮独立運動の大会が開かれた。

その一ヵ月後朝鮮半島において三・一運動が始まった。

1919(T8)3.1 三・一運動の経緯 資料No.3

3月1日ソウル・パコダ公園で数千名の学生、労働者、市民が大会を開く
ソウルの中学生以上の官私立学校の生徒はすべて同盟休校

 まかれたアピール文


考えよ!愛する朝鮮の同胞たちよ!
われわれの子どもたちは、いったいどんな境遇にいるのか
どこへ行けばものがいえるようになるのか。
われわれの国土はどうなっているのか。
・・・いまあたたたち日本人はどうしてこのような悪意と配信を示しうるのか
どうしてそんなにまで暴力を熱中することができるのか
われわれはいままで束縛されてきた
いまこのときに自由にならなければ、もはや再び自由を獲得することはできない

兄弟たちよ なせば必ずなる!!
道はある!勇気をなくすな!
われわれは木石ではない
生身の人間である
だまってひきさがっていられるだろうか

死を恐れるな!
たとえ視すともわが子孫たちが自由のよろこびをかみしめてくれるだろう

独立万歳!万歳!万歳!


独立宣言書(抄)


われらはここに、わが朝鮮の独立と、朝鮮人民の自由人たるを宣言する。
これをもって世界に告げ人類平等の大義を克明し、これをもって子孫万代に教え
民族自存の生と追うなる権利を永遠に有しむるものである

当日は李太王の国葬(3.3)に参加するために20万人の民衆が集まっていた。
10日頃までに13道の主要都市から中小都市、村に及んだ。

柳 寛順 (ユ・ガンスン) 資料No.3


 15歳のソウル女学生。4月に逮捕。
 翌年10月拷問、栄養失調と病で獄死。(16歳)
 3,000余人の万歳運動を先導した。
 韓国のジャンヌ・ダルクと称されている。





宣教師団の運動の報告 1919年 資料No.4

「現代史資料 朝鮮」 より デモの詳しい様子


 3月5日には上級学校では一人の学生も登校しなかったし、国の独立が確立するまでは
もはや学生は一人も登校しないだろうという噂が学校の幹部連に伝わってきた。
以後一ヶ月近く、上級学校は一つとして開校することが出来ない。

 3月5日、水曜日、朝9時ちょうどに鉄道駅前の大通りで騒ぎが起こった。
青年たちが商店や路地から大勢出て駅のほうへ向かい、彼らの民族の叫びを口々に叫んだ。
その直後、人力車に乗った一人の男が、南大門の方へ通りを上がり、群衆に囲まれ両手を差し上げ、赤い流しを持って門を通り、宮殿へ向かう古い街に入って行った。
このデモはほとんど学生だけで組織され、進むに連れて女子学生も加わった。
警察は明らかに不意をつかれ、デモは阻止されるまで半マイルもは知った。
宮殿前の大きな広場では警察は隊列を整え、群集にサーベルを抜いて突撃し、
多数に怪我させた。男女の別は省みられず、少女は乱暴に扱われ、殴られ、
そして多数の女子学生を含む数百人が逮捕された。
学生たちは決して暴力に訴えようとしなかった。
その目的は明らかに示威行進をする事のみにあり、検束されることは、
彼らにとって祖国に対する名誉であった。
セヴランス病院の看護学生のほとんどは群集が通過した時すぐ外へ飛び出した。
彼女らは包帯を持ち、救急看護の用意をして事に備えていた。
看護学生のおうち14人が逮捕され、午後までに警察署に拘留された。
彼女らはデモに出る事を病院の幹部(伝道者達)に命じられたかどうかを執拗に尋問された。
検束された若い女学生たちの場合はそう簡単ではなかった。
ほとんどが拘禁され、多くはこれから牢獄の苦痛を味わねばならぬと宣告されるだろう。

日本の対応 資料No.3

3.11 原敬首相の指令
   「今回の事件は内外に対し、極めて軽微な問題として扱う必要があるが、
    実際には厳重な処置をとって再び発生しないようにせよ」

下旬 武力衝突
    当初は平和的示威運動であったが、 日本軍の残忍な弾圧が加わると
    鎌や鍬などで面(村)の事務所や警官駐屯所、憲兵分遣所を襲う。

4.11 朝鮮軍司令官指令
   「この際軍隊の行動が慎重過ぎると彼等暴民が却って増長するおそれがある。
    軍隊は断然弾圧手段で彼らを恐れ入らせると同時に一般民衆への戒めとするために
    速やかに鎮圧平定することが肝要である。

4.15 長谷川好道・朝鮮総督 発 政令第7号
   「政治に関する犯罪処罰の件」
    政治の変革を目的とし、多数共同し、安寧秩序を妨害しまた棒がんせんとした者、
    およりこれを煽動したものは、10年以下の懲役、または禁固に処す。

4月末 鎮圧

総督府 文書
(日本側
朝鮮独立運動の血史
(朝鮮側)
参加者 約50万人
騒擾箇所 618
騒擾回数 848人
 官憲側死傷者 166人
普通人民死傷者 29人
参加者総数 2,023,098人
参加府都数 211
集会回数 1,542人
死亡者 7,509人
負傷者 15,961人
 

※参考資料  講座参加者のOさんのの韓国ホームステイ日記の3.1運動に関するページ

海外に波及した独立運動 資料No.4

万歳デモは朝鮮だけでなくハルビン・間島・シベリア沿海州・ハワイでも起きた。
国外に逃れた指導者たちは上海で大韓民国臨時政府を結成した。

激しい盛り上がりに日本政府がした軌道修正

8月斉藤実(元海相)が朝鮮総督に就任
武断政治 → 文化政治

憲兵警察(憲兵・警察官1,418名) → 普通警察(警察官16,897人)
官吏や教員の制服・帯剣を廃止。
学校を作って臣民を作る。
朝鮮語の新聞を発行を許可。
米の増産する。

1922(T11)三・一運動の四年後の様子 

    「文化政治」の時代に朝鮮人と日本の国会議員で話したこと


此れまで内地人が数十数百となく朝鮮の視察に見えます。
然るに一度だって真に朝鮮の実態を見て帰った人がありましょうか。
南大門の駅から此処(朝鮮ホテル)迄着てみると坦坦たる道路、宏壮なる建物
人車絡繹、如何にも一見して発展したかの如く考えられます。
然るに真に朝鮮人がそれ丈発達をしたでありましょうか。
其心情極むる時に、あなた方はそれは単に朝鮮にある日本人が発達したのみで、
朝鮮人自身の経済、文化というものは却って退歩して居ることを発見せらるるでしょう。
私が考えまするに、今日総督の統治策は朝鮮人を本位として朝鮮人を治めるというに非ずして、朝鮮において日本人を発達せしめんが為に日本人の為の政治をおこなっているものである、隋て総督の政治が朝鮮民族に満足を与えないのは当然である

世界戦争の結果民族自決の声に呼覚まされて遂に大正8年3月の万歳事件騒ぎを引き起こしたのであります。実際は何等の変更を水、朝鮮民族は益々不幸に陥っている。

「文化政治」については、朝鮮貴族会会長、中枢院顧問の公爵朴泳孝ですら次のように言っている。斉藤総督になって文化政治を行うといって憲兵を廃したのはよいが、その代わりに巡査を多くし、各所に駐在所を作る、そうして此れを国費を以って負担せず地方に負担せしめ
負担しえなかった者には賦役を課す。そうして此の駐在所の薪、炭油代まで地方に負担せしめる。此れが所謂寄付というもので、今日は実に此の寄付の多いのに困りきって居るのです。
警察官が代わるたびに歓迎費まで取る。此のことは旧韓国時代にもなかった事です。
教員の剣や官吏の剣は取られ、憲兵が巡査に代わったが、それは鮮人には何の関係もないことです。

京畿道の儒林慶賢秀という人は「文化政治」について次のようにいう。
斉藤総督は文化政治をやると言っていたが、来てみても文化政治は行わず
武断政治を行っている。
そればかりでなく、警察の人員を増やして今日まで捕まえたのが
一万人以上になっている。その如くして、何で文化政治ということが出来ましょう。


                                (同光編朝鮮民情視察報告より)

日本の冒した過ち


日本民族が神の国に生まれた最高の民族という誤った民族意識を持ち
アジア周辺の諸国の人たちに対して、全て意に逆らうものは許さないという
間違ったことを押し付けてしまった。
今靖国参拝で中国韓国ともめていますが、
政治家の人たちにはもう一度歴史を学びなおしてもらいたい。
政治家や多くの遺族の方達は「あの方たちの犠牲によって今日の平和と繁栄がある」というけれど、侵略から祖国を守り通したのではなく、今日の繁栄は今の80代の人たちが戦後何もないところから歯を食いしばって頑張って経済の基礎を作ったおかげだと思います。
その方たちに医療費の値上げをするなどというのは間違っていると思います。
ちゃんとした歴史認識を持って外交にあたって友好関係を築いてほしい。


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