1914(大3).8.7. イギリスがドイツの東洋艦隊撃破のため日本の対独参戦を要求。
○閣議(第二次大隈重信)は積極賛成論続出
・ 加藤高明外相:ドイツ艦隊のみならず青島を含めアジア全体にわたる軍事行動を主張。
・ 大隈重信首相:参戦すれば、わが国の支那における権利を伸張できると発言。
○ 有力者からも積極参戦論
・井上馨「今回欧州の大禍乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑にして、
日本国は直ちに挙国一致の団結を以って、この天佑を享受せざるべからず。
(中略)この戦局と共に、英・仏・露の団結一致は更に強固になると共に、
日本は右三国と一致団結して、茲に東洋に対する日本の利権を確立せざるべからず」
・元老 山県有朋「大正新政の発展は、此世界的大禍乱の時局に決し、欧米強国と
へん行(並べる)提携し、世界的問題より日本を度外すること
能わざらしむるの基礎を確立し・・・」
1914(大3).8.8 午前2時 参戦決定
2日後、イギリス、参戦依頼取り消し
理由は、日本軍の戦闘が陸上に波及することで中国の内政・貿易に混乱が生じる。
ヨーロッパの権益が冒されるということ。(日本の野望を察知した)
1912(大1).1.1 辛亥革命により、清王朝に変って中華民国成立
1912.1 南京臨時政府(臨時大総統に孫文)
4 北京政府発足に伴い、袁世凱に政権を譲る。
(袁世凱は、日本で言えば中曽根康弘、駈引きがうまい。)
以後1918年まで袁世凱が軍事力を掌握する。
1919(大8).5 北京で反日・反帝運動(五四運動)が起こる。国民党成立。
(中華革命党を孫文が改称して国民党とする)
1921(T10) 孫文が反旗を翻し、広東政府を組織。政府が二つ(北京と広東)になる。
1925(T14) 孫文の死後、孫文の元で国民党の要職を歴任してきた汪兆銘(容共派)が、
広東(広州)国民政府を引き継ぐ。蒋介石(反共、右派)と合わず、反蒋運動を展開。
1926(T13) 国民革命軍北伐開始〜28(S3)、蒋介石は北伐を継続。
1927(S2).2 汪兆銘を中心とした武漢政府(左派共和体制)発足。
(汪兆銘は、法政大卒文化的素養あり。)
4 蒋介石(右派)は、上海クーデター(共産党支配に対する抵抗)を断行し、
南京国民政府を組織。(蒋介石は、日本の陸軍士官学校、視野狭く力づくのやり方)
9 武漢政府を吸収合体。浙江財閥を地盤とした強大な軍事力により、
国民政府(蒋介石)が天下をとる。2年間の内戦の後、1928年ほぼまとまる。
この間、北京と南京に二つの政府が存在した。
日中戦争では、欧米列強は、南京政府(蒋介石)を正統な政府として終始応援する。
一番力があると考えた。しかし、日本は「南京政府を相手とせず」と声明を出す。
日本政府の交渉相手は、北京政府(袁世凱)であった。
1914.8.6 中国(北京政府:袁世凱・孫文)は、いち早く局外中立を宣言。
8.12 加藤外相、戦闘地域を限定することを条件にイギリスに参戦の同意をとりつける。
イギリスはこれを認める。
どの地域に限定したか。No.41の地図 ★
りゅうほう(ろんぽう)、青島に区域を限定
しかし、実際は、すでに山東半島全域に進出
8.15 ドイツに最後通牒
(23までに下記について承諾しなければ宣戦布告する)
@日本及び中国海域からのドイツ艦艇の即時退去
A膠州湾租借地を中国に還付する目的で無償、無条件で日本に引き渡す
8.23 ドイツは回答しなかった→そのため対独宣戦を布告
10.19 日本、マーシャル、マリアナ、カロリン諸島占領。
11. 7 青島のドイツ軍降伏
ドイツが最後通牒に応ぜず宣戦して攻略したのだから、
日本は膠州湾租借地を中国に返還する義務なしと解釈。
(中国を対等な国として認めていない証拠、天皇の詔書にも通じる)
○捕虜の扱い
次官通達「中国人を俘虜として扱うことを禁止する」
俘虜を収容所に収容したら捕虜とする(昭和天皇がサインしている)。
俘虜とした場合、ジュネーブ条約により、捕虜として扱わねばならない。
生命は保証しなければならない。
そこで、中国では俘虜はいなかった、とした。人間以下の扱いだった。
敗戦後日本政府は統治下に欧米人の捕虜数千人を収容したと報告、
その中に中国人の捕虜はわずか56名と書いてある。
当時の参謀総長は、寛仁宮で天皇の裁可を得ていることは間違いない。
天皇も承知の上で、多数の中国人を見殺しにした。
○化学兵器に関して
中国戦線では化学兵器の許可を参謀総長名で出している。
日本の国は、太平洋戦争を始める前に、フランス領インドシナ(今のベトナム)に進駐。
その時、杉山参謀長は、華南地域では化学兵器の使用を厳禁する、とした。
しかし、中国戦線では許可している。いかに中国人を人として見ていなかったかがわかる。
(資料No.13)
1915(大4).1.7 中国、山東省の交戦区域の廃止を公式に宣言、日本軍の撤退を要求。
日本これを拒否。
18 袁世凱大総統に「21カ条要求」をつきつける。
1914.11.15 石橋湛山『青島は断じて領有すべからず』(東洋経済新報社説)
青島陥落が吾輩の予想より遥かに早かりしは、同時に戦争の不幸の亦た意外に少なかりし意味に於いて、国民とともに深く喜ぶ処なり。
然れども、かくてわが軍の手に帰せる青島は、結局如何に処分するを以って、最も得策となすべきか。是れ実に最も熟慮を要する問題なり。
此問題に対する吾輩の立場は明白なり。亜細亜大陸に領土を拡張すべからず。満州も宣く早きにおよんで之を放棄すべし、とは是れ吾輩の宿論なり。
更に新たに支邦山山東省の一角に領土を獲得する如きは、害悪に害悪を重ね、危険に危険を加うるもの、断じて反対せざるを得ざる所なり。(中略)
戦争中の今日こそ、仏人の中には、日本の青島割取を至当なりと説くものあるを伝うと雖(いえども)這次(しゃじ)の大戦よりも癒よ終りを告げ、平和を回復し、人心落ち着きて、物を観得る暁に至れば、米国は申す迄もなく、我に好意を有する英仏人と雖、必ずや愕然として畏る所を知り、我が国を目して極東の平和に対する最大の危険国となし、欧米の国民が互いに結合して、我が国の支邦における位地の覆覆に努むべきは、今より想像し得て余りあり。
かくて我が国の青島割取は実に不抜の怨恨を支邦人に結び、列強には危険視せられ、決して東洋の平和をぞうしんする所以にあらずして、却って形勢を切迫に導くものにあらずや。
這回(しゃかい)の戦争に於いて、独逸が勝つにせよ負くるにせよ、我が国が独逸と開戦し、独逸を山東より駆逐せるは我が外交第一着の失敗なり。
若夫れ我が国が独逸に代わって青島を領得せば、是れ更に重大なる失敗を重ねるるものなり。其の結果は豈(あに)ただ我が国民に更に限りなき軍備拡張の負担を強ゆるのみならんや。青島の割取は断じて不可なり。
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