今まで古事記ばかり読んでいて買ったまま 余り読めなかった『日本書紀』を 今回じっくり読んでみました。 とても面白い。(ニコッ) 楽しくてたまらない、という様子で 講義してくださる善方先生です。 文化の日(旧明治節)、 海の日(明治天皇が巡幸を終えて 東京湾に上陸した日)などは 「国民の祝日」といえるか。 平安時代から星を祭る日とされ庶民に 親しまれている七夕を どうして祝日にしないのでしょうか。 反骨精神に溢れたロマンチストでもある善方先生です。 |
日本書紀と教科書の関係
つくる会の「新しい歴史教科書」(扶桑社)には
神話(古事記、日本書紀からの引用)が多い。
祖国愛とか伝統の尊重ということに神話が活用される恐れがある。
教師が神話をどう取りあげるか、が重要になってくる。
教科書に書かれたことを鵜呑みにしないために、
原典である『日本書紀』とはどういうものかくわしく見ておきたい。
660年とした理由:中国古代の讖緯説により
斉明7年(西暦661年)辛酉の年に革命がおこる
60年の21回目(60×21=1260年)周期で大革命。
661年から1260年さかのぼると、紀元前600年。
これに、神功皇后が摂政時代の60年を加算して、660年とする。
しかし、歴代天皇の名前は明治時代に変更されている。←クリック
書紀には「畝傍山の東南」とあり、近くに橿原神宮がある。
教科書(資料No.28、昭和18年版初等科国史)には、
「天皇は、畝傍山のふもと、橿原に都をおさだめになり」とあるが、
実際は西南にある「柏原」ではなかったか。
近くに「神武社」がある。
これは、本居宣長が"菅笠日記"(1772年)で指摘している。
● 都の場所はあいまいである。
神武天皇が丘の上から国状を視察し、
「蜻蛉がとなめせる(交尾の姿)如くあるか」と言を発したことから、
初めて秋津洲(あきつしま)の名が生まれる。(蜻蛉嶋から秋津洲へ)
秋津洲とは「稔り多い国」の意で、古くは葛城一帯をさしたが、
次第に日本全体をさすようになる。
言葉のもつ力は、現在も同じ。励ましの言葉を言われると、非常に勇気づけられる。
● 天皇の言葉が特別の力をもった、ということは頷ける。
剣根(つるぎね)という神武の一族を「葛城の国造となす」とあるが、
国造という官位ができたのはずっと後のこと。
● このことから事実とは思いにくい。
ヤタガラスにも賞が与えられたとあるが、これは鴨建津身命(鴨一族の祖先)のことを指す。
1)祖神、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)に戦勝を祈願した。
2)大和平定のお礼として鳥見山に祀ったのは、皇祖の天神、高皇産霊尊。
この祭りが大嘗祭の起源。大嘗祭とは、天皇が現人神になる儀式。
● 書紀(神武4年)には天照大神の名はない。
教科書には、「鳥見の山中に天照大神始め神々をおごそかにおまつりになり」とある。
この謎を解いて行きたい。
神武王朝か?葛城王朝か?
第1代から第9代までを神武王朝とする。天皇と切り離してみると、
部族国家として最初に登場したのが、葛城の山を中心とする地域であったことから葛城王朝という。
● 神話によれば神武だが、歴史的には葛城が正しい。
神武王朝が9代で終わっている理由
中国王朝史の太一神・三皇・五帝にもとづいている。
日本根子(やまとねこ)という諡号
元明天皇(43代、古事記を受け取った天皇)と
元正天皇(44代、日本書紀を受け取った天皇)の諡号は、
共に「日本根子」で始まる。記紀が出来たのは、8世紀初めである。
しかし、第7代、8代、9代の天皇の諡名に「日本根子」がある。
ということは、これらは、8世紀初めにつけられたということで天皇の存在は疑わしい。
神武天皇の諡号
(No.40)国号<日本>については、608年(推古16年)に初めて使われた記録がある。
隋への国書の中で使われていたことが、中国歴史書『新唐書』に書いてある。(669年)
このことから、日本(やまと)が含まれる神武天皇の諡号は後からつけられたものといえる。
彦という字の意味
ほとんどの諡号に含まれている。女帝に対しては姫(媛)
ひは、日(太陽)、つまり天照の子孫であることを、示そうとしている。
磐余(いわれ)の意味
藤原宮のとなりに設けられた都。神武、17代、22代、26代に用いられている。
● 日本書記はあくまで創られた神話である。
『旧唐書』という中国の本に「倭は、委を嫌って夏音による日本(やまと)というようになる」
かつては倭を(やまと)と読んでいたが、委は「ひざまずく」という意味があることで嫌がった。
奈良時代(708年:和銅1年から)公式令によって、
対外関係で日本(やまと)を用いるように定められた。
● 700年以前の天皇の名に日本(やまと)が使われているのはおかしい。
後ににほんと読むようになり、にっぽんと読むのはかなり後になってから。
1)669年前
法隆寺の薬師像の光背の銘文に
「小治田大宮天下大王天皇(おおきみすめらみこと)」(607年:推古15年)とあるが、
当時は大王(おおきみ)と呼ばれ、天皇という言葉は一般的には使用されていなかった。
書紀では、
「608年〜〜〜、東(やまと)の天皇、敬みて(つつしみて)西(もろこし)の皇帝(きみ)に白す(もうす)。…」
とある。
『新唐書』によれば、669年が初。その前に使われていたとしているのは疑わしい。
2)万葉集(770年ごろ成立)の頃
巻三雑歌に、「天皇、雷岳に御遊しし時(いかづちのおかにいでまししとき)、・・・」
235の歌では、天皇ではなく、大君と歌われている。恐らく持統天皇。
「大君は神にしませば天雲の雷の上にいおらせるかも」
また、「或る本にいわく〜〜」として、
「王(おおきみ)は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます」
これは柿本人麻呂が忍壁皇子(刑部とも書く、おさかべのおうじ)に贈った歌。
(皇太子であるから、大王ではなく王となっている。)
同じような歌だが、2首に天皇を神としている。
241の歌では、「皇は神にませば真木の立つ荒山中に海をなすかも」
● 8世紀天武天皇の時代になると、天皇は絶対の権力を持つようになる。
しかし、それ以前は大王とよばれていた。
大和国家(部族連合体国家)では、大王は絶対者ではなかった。
王位(皇位)継承よりも、部族または国家の神を祭ることの方が重視された。
従って、祭祀権は第一子(長男)が、王位は第二子(次男)が継いだ。
14代の仲哀天皇まではこの序列がしっかりしていたが、
次第に国としてのまとまりが強くなると、
長男が次男を殺して、政事権をも手に入れるという事態も生じるようになる。
(17代の履中天皇は第一子だったが、第二子を殺害して皇位についた)
葛城氏の先祖神は、高皇産霊尊。(皇の字は、皇室の祖神であることを示している)
産霊は、物を生み出す神霊→生産の神。
天照大神は名もなき出自であり、本文とは別のところで扱っている。
その天照大神をなぜ天皇家の祖神としなければならなかったか?
高皇産霊尊を祭った高天彦(たかまがひこ)神社は、
古くは高天山といわれた金剛山(葛城山脈の一つ)の山腹の台地にあり、
神社前に「高天 原伝説地」の石碑がある。葛城地域の部族全体の神であった。
九州の日向に降臨したという話は、後から創られたもので、神武の東征と関係がある。
本来は、日本の部族国家が最初にできた大和である。
天皇家の祖神が大和に降りたとしては他の部族との違いが際立たない。
そこで遠く筑紫のくにに降りたことにした。こうして天皇家の歴史が創られる。
高天彦(たかまがひこ)神社は、平安時代には最高位の神社(名神大社)とされていたが、
明治期に村社に格下げされる。
日本書紀とは
六世紀の天皇によって朝廷の権威を歴史的に正当化させようという意図のもとに作られた。
実在は十代崇神天皇からと言われているが、中国の古代思想に則って作られたそれ以前の歴史が付け足されている。そのため日本を作ったとされる天皇が二人いる。
検証してゆくと後世の権力者にとって都合のいい歴史となっている。
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