3-5  2005/5/8

                                                     その1
 

 今日はちょっと用事がありまして・・・
 12時半に失礼致します。
 本当にすみません。  (そわそわ)

 今日はちょっと妻が・・・
 合唱に出るもんで・・・
 東京芸術劇場に行かなくてはならなくて・・・
 申し訳ありません。
 失礼します。  (ぴゅー)


 講座は明治以降の教科書を順番にあたった人が音読してまるで昔の教室のようで楽しく
 教科書問題の原点を探る、とても興味深い充実した内容でした。

  明治からの教科書の変遷で見えてくるもの

国定教科書編者かく語りき。歴史に三種類あり。

 ★第一は学問研究成果による歴史
 ★第二は大衆小説や芝居などで楽しむ歴史
 ★第三は文部省の教則にしたがって書かれた歴史


資料No.4

儒教主義の復活 

1879(M12)〜巡幸の後、天皇の名で”教学聖旨”が示され、教学の根本精神として儒教主義の復活を図った。
翌年「仁義忠孝」の徳育を目的として東洋の古典から格言名句を集めた教科書「小字修身訓」を編集。欧化政策からの転換。
1882(M15)全国の学校に「小字修身訓」と同様に「仁義忠孝」を国民道徳の目標とする「幼学綱要」が宮内省(現宮内庁)から頒布された。

検定教科書の登場

教育関係の要綱は、法律主義(国家で決定)にするか勅令主義(天皇が決定)にするか論争があったが勅令主義がとられ敗戦まで続いた。
これに伴って教育勅語の趣旨を徹底するため修身教科書の検定は厳しく行われるようになった。
国語の検定本「読書入門」「尋常小学読本」はドイツの読本を参考に1ページに絵と文字を教える形をとった。
1900(M33)から「国語読本」のかなづかいが改正され「棒引きかな」になった。(第2期国定教科書から廃止)

国定教科書時代

1902(M35)末 教科書の採用をめぐり府県の審査委員と出版社との間に贈収賄がおこり全国で大規模な摘発が行われた(教科書事件)
これを契機に教科書は国定制によるほかないとされた。
以後敗戦まで「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於イテ著作権ヲ有スルモノタルヘシ・・・・」

日露戦争後の教科書

日露戦争後、国家主義が強化され、民権思想は薄れ教科書の内容も改められ1910(M43)、第2国定教科書が使われた。
「尋常小学校読本」(通称「ハタ」「タコ」読本は1期の「イエスシ」読本と異なり、この教科書は最初から単語を教えた。
童話、伝説、文学的な教材も増えてきたが、巻7に広瀬中佐、巻8に橘中佐、巻10に永師営の会見など軍事教材も入ってきた。
前教科書では富士山を二番目に高い山(台湾の新高山が1番)としているのに対し、「日本一の山」としている。


修身の教科書

資料No.5,6,7,11

1905(M38)−1909(M42) 第1期「尋常小学校修身書」第2学年

1親子 2お母さん 3お父さん など家庭から始まっている教科書
個人を育てることに重点が置かれていた
天皇は23番目に登場


テンノーなどの長音はドイツ式表記

キグチコヘイ 日露戦争で死んでもラッパを放さなかった話


1910(M43)-1917(T6) 第2期「尋常小学校修身書」巻1

1良く学びよく遊べ 2時刻を守れ 3勉強をせよ ・・・ よき国民像
キグチコヘイ また登場

天皇を祭る神社を敬わなければならない
日本人は勇敢で忠義を尽くす

                                       →その2に続く