〜 先生の手作り資料 〜 善方先生は 毎回膨大な資料の中から必要なものを選び 手書きの資料を準備していらっしゃいます。 その内容は精密で多岐にわたり その時代に生きた人たちの息づかいや 時代を包む空気が伝わってきます。 そのスタンスはその時代を生きる人たちが 何を考えどう暮らしたかを見つめ 犯してしまった過ちを繰り返さぬように 未来のために学ぶという姿勢です。 大好きな古本市で掘り出し物を 安く手に入れるのが楽しみとおっしゃる 善方先生なのでした。 |
足尾鉱毒事件と田中正造 (資料No.2)
略歴
富国強兵の国益のために起きた足尾鉱毒事件で
被害の農民たちは政府から切り捨てられていたが、
国民あっての国であるという強い信念で
敢然と政府に立ち向かい、全てを投げ打ち、
命を賭けてまで被害者救済のために生涯を捧げた政治家。
・ 1841(天保12)11月3日 栃木県佐野市の名主の家に生まれる。
・ 1871(M4)江差県(現秋田県)で役人となるが冤罪で投獄されて2年9ヶ月入獄。
・ 1880(M13)栃木県会議員となる。
・ 1890(M23)第一回衆議院議員に当選。
・ 1891(M24)第二回帝国議会に初めて足尾銅山の質問書出す。
・ 1896(M29)渡良瀬川大洪水。
・ 1900(M33)川俣事件おきる。
・ 1901(M34)衆議院議員を辞職し天皇に直訴する。
・ 1904(M37)谷中村に住む。遊水池化反対運動に励む。
・ 1913(T2)病に倒れ旅の途中73才で死去。
群馬県にある元幕府直轄鉱山。
明治政府は列強に追いつくために国が豊かになるのを急いだ。
当時は石炭、銅が輸出品として主要品目であり銅で外貨をかせいでいた。
1876(M9)12月 生糸貿易商の古河市兵衛が48,000円で買い取り翌年から採鉱開始。
最新鋭の機器を導入した。年々 産出量増加。
渡良瀬川沿岸で被害が発生。 ( 死魚の増加 川水飲用による被害など )
1887年(M20)被害が鉱毒によるものと判明。
当時漁民の数は3000人。鮭、マス、鮎などいたが80年代になるとウグイのみ。
1890(M23)洪水で鉱毒が広い範囲に広がり社会問題となる。
田中正造(栃木県選出・改進党)第2議会(11.26〜12.25)に質問書提出。
農商務大臣 陸奥宗光 これに答弁せずに議会解散後、答弁書を官報に発表。
被害は事実、原因は未確定、
鉱業人(古河市兵衛)はなすべき予防の措置を準備しつつある。
当時の農商務大臣陸奥宗光は、実は息子が古河市兵衛の娘婿で姻戚関係にあった。
政府としても国が豊かになるためには農民よりも企業側の立場に立った。
政府と陸奥との利害が一致し鉱毒事件はきちんと取り上げてもらえなかった。
陸奥は議会での答弁を避け官報に載せて言い逃れるという姑息な手段を使う。
田中正造は第3特別議会(5.6〜6.14)に再度質問書(専門家の分析結果 添付)提出。
政府は鉱毒を承認したが、その一方で政府、県知事、県会議員を仲裁役に立て
被害農民と古河の間で示談を成立させた。
仲裁会に出席し、示談書に調印したのは地主たちで、
鉱毒に苦しむ被害村民たちは仲裁会へ入ることが許されなかった。
日向康 ”谷中村”思想の科学1962年9月号
「どこの村でも、地主階級は鉱毒があるとはいわないのです。
(小作料を減免しなければならないから) 〜略〜 地主達は直接損害がなかったから補償はいくらでもよかったんでしょう」
渡良瀬川沿い田畑一千町歩余、毒土、毒砂が流れ込み不毛の地に。
被害農民代表「足尾銅山鉱業停止請願書」農商務大臣に提出。
田中正造は被害各地をまわり、事の重大性を訴えた。
正造は鉱山のための坑木の伐採と煙害で木が枯れて洪水をおこすと心配していた。
治山治水の重要性をずっと説いていた。
田中正造は1月現地視察団を案内したあと、第10議会(96.12〜97.3.24)で
2時間余に及ぶ鉱毒演説。
1.15 読売新聞「足尾鉱毒事件の由来とその事実」
明治12年頃より渡良瀬川の魚族故なくしてたおるるもの多し。しこうして漁夫ら皆
その理由の何たるかを弁ぜず。いわく、これ魚族の疫病ならん。明年にいたらば
回復すべけんのみと。しかるに日を経るにしたがって魚族のたおるるものいよいよ多し。
13年夏栃木県庁は県達しをもって渡良瀬川に産殖せる魚を食うを禁じ、かつこれを
販売するをも禁じたり。
この頃、東京よりの荷物を満載し渡良瀬川に依りて群馬栃木両県の間を往来せる船あり。
水夫ら従来の週間として渇を医せんために河水を飲用すれば、その唇漸次紫色に変じ、
また沿岸の細民、出水の才は流木を拾うて焚き火をすれば、顔となく手となくことごとく
亀裂生せり。 〜略〜 明治23年の両毛地方の洪水に際し、そのいわゆる堤外地は
いうまでもなく、堤防破壊して数百歩の菱電は忽然として一基生ぜず。一穂実らざる
不毛の地とかしおわれり。
ここにおいてか人皆はじめて鉱毒の害、広大無辺なるに吃驚せり。
2.28 神田キリスト教 青年会館で東京で初の鉱毒事件演説会。
田中正造、島田三郎、高橋秀臣など5人
3月 田中正造の再度の質問書に対し
「数年前に示談になっているから政府は関わりない」と答弁。
足尾鉱山鉱毒被害地の人民2000人余 徒歩で東京に出発。
館林、佐野、古河で警官に阻止される。
3.3 800人日比谷に結集、農商務省を囲み鉱業停止を強力に請願。
5.27 東京鉱山監督署 鉱業主 古河市兵衛に鉱毒排除を命令。
5.28 政府「足尾銅山鉱毒調査会」を設け、鉱毒防御工事を古河に命令。
陳情団、上京。田中正造も鉱毒おさまらずと政府を難詰したが事態不変。
鉱毒への認知が高まるにつれ政府も調査会など設置し防御工事を命令したりしたが
結局採掘は継続され有効な防御工事はなされず中身のないポーズでしかなかった。
被害農民達は免租(税を免除)の代りに請願してはいけないなどともちかけられた。
2.13 川俣事件
足尾鉱山被害民2500(2000)名、議会への請願のため上京。
村長助役が先頭に立った。(堺村では助役の野口さんが青年隊を組織)
館林の利根川辺、川俣村で待機中の憲兵と警官隊と衝突。
15名検束逮捕(含 主だった村の村長たち)
罪状は凶徒嘯聚(しょうしゅ)罪。
2.15 亡国演説
「民を殺すは国家を殺すなり。法を蔑(ないがし)ろにするは国家を蔑ろにするなり。・・・」
足尾鉱毒被災民請願運動弾圧につき衆議院で質問演説。
第二次山県有朋内閣(98.11.8〜00.9.26)の亡国演説への対応
「質問の旨趣その要領を得ず、依って答弁せず」 ← 無視してごまかす
更に弾圧を強めていった。
3.10 治安警察法公布
政治結社・集会・示威運動の規則に加えて、労働運動、農民運動の取締をも規定。
※集会および政社法は廃止
10.23 議員辞職
川俣事件と亡国演説後の政府の対応に失望し議会への働きかけが何にもならず
自らの無力を責めた正造は議員を辞職した。
毎日新聞主筆のの石川半山が「平和的手段はもう・・・佐倉惣五郎たるべし」とけしかけ
(佐倉惣五郎・領主に直訴して処刑された江戸時代の人物)
正造は名文家として有名な幸徳秋水に直訴状を下書きしてもらいにゆく。
12.10 天皇直訴
61才の正造は死を覚悟し黒い着物に袴で足袋の格好で天皇の馬車に向かって
「お願いがござりまする」と叫んで直訴しようとしたが驚いた馬から落馬した憲兵につまづき
天皇には気づかれなかった。
裁判沙汰にならないように、直訴の翌日政府は正造を”狂人”として釈放した。
毎日新聞の石川半山が新聞でキャンペーンをはり世間は大いに盛り上がる。
12.27 視察団
田中直臣牧師(数寄屋橋教会)ら、学生の足尾鉱毒地視察を計画。
700人(東大、一高、高師、外語、学習院など 学生生徒。立教中学前田多聞もいた)
1月
文部省、団体個人を問わず、鉱毒演説、視察旅行、参加禁止を命令。
3月
川俣事件の凶徒嘯聚(しょうしゅ)罪の農民たちに、無罪判決が出る。
検事上告で大審院で原判決破棄。
宮城控訴院移送となったが控訴手続き不備で無効宣言。
被告人68名釈放 1904(M37)
この間に、官立の農科大学の鑑定により砒素の存在が確証された。
3.17
政府 鉱毒調査委員会 官制公布(勅令)
総理大臣の監督の下に15人以内の委員をおく。
政府の解決策
鉱毒が流出するのは洪水のため。
谷中村を廃村にし遊水池を作り渡良瀬川の氾濫を防ぐ。
全くお門違いの無意味な解決策で、根本的な鉱毒対策では全然ない。
問題のすり替え。
谷中村は必要もないのに犠牲となり廃村に追い込まれた。
9.28
関東、東北地方暴風雨。足尾銅山の山崩れ。国府津の津波。被害甚大。
谷中村を遊水池にすることに反対した正造だったが、村人たちは正造のせいで
谷中村が遊水池にされると恨んで冷ややかに遇した。
最後まで支援したのは木下尚江、石川三四郎、福田英子らごく少数の人たち。
7.30
最後まで抵抗した16戸、強制破壊。
荒畑寒村著 ”谷中村滅亡記”1907年刊より
480年の歴史を有する旧家(内野字高砂、茂呂松右衛門宅)では長男の悲痛な抵抗に
田中翁は汗と涙を両手でぬぐいつつ吉松をさとし、かろうじて事なきをえた。
村の強制破壊後も住み続けた正造だが、反対運動資金を集めるための旅に出て
8月2日に支援者庭田清四郎宅で倒れ谷中村の復活を念じつつ生涯を終える。
財産は全て鉱毒反対運動などに使い果たし、死んだときは無一文で全財産は
信玄袋ひとつであった。
解決は敗戦後。主権在民の日本国になってから。
1968(S43)3.22
経済企画庁、渡瀬川流水基準公示(1890年以来の公害 足尾銅山鉱毒問題に新対策。
1974(S49)5.10
公害など調査委員会、古河鉱業足尾鉱毒事件で被害者ら971人に補償金15億円の調停案提示。 翌11日妥結。 100年公害決着。
結局は国家のごり押しに負けてしまった正造でしたが、愛媛や茨城など他にもあった
鉱毒被害が正造の足尾銅山の告発が警鐘となり被害拡大を防げたのでした。
終わりに八ッ場ダムの建設反対運動の埼玉事務長がビデオを見せてくれました。
関西でしか放送されなかった奈良県の大滝ダムの「42年の裏切り」
住民が危険だと警鐘を発していたダムが造られ地滑りがおき
住む家を離れなければいけなくなった白屋地区の人たちのドキュメンタリーでした。
それは繰り返される国家の壮大な税金の無駄遣いとふるさと喪失でした。
国家にとっての国益≠国民益 の構図は過去のものではないのです。
今も一人ひとりの心の中に田中正造の精神が生きることが大切なのではないでしょうか。
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