善方先生の「東京大空襲」 〜 14歳の体験 〜 当時私は中学二年生で、本所の言問橋の近くに住んでいました。 空襲の時は父は防災団に行きましたので 母と兄と焼夷弾の嵐の中を逃げまどったのでした。 10万人を越す死者が出て上野公園は最大の死体置き場となり 遺族が遺体を見つけだすとその場で荼毘に付されました。 生き延びた私は言問橋で死体の片づけを手伝いました。 橋から川の中の死体を引き上げても、また新たに流れ着き 死体が川からすっかり無くなるのに2週間かかりました。 焼け焦げた死体は炭化し軽くなりすぐ折れてしまいました。 あまりの多さに私は何も感じなくなり機械的に死体を片付けていましたが ある死体を持ち上げた時にふと髪の毛が目に入り、よく見ると それは炭になってない女の子の死体なのでした。 覆い被さっていたのはおそらく母親だったと思われます。 それを見たら急に涙があふれ出して止まりませんでした。 係りの人にどうぞ一緒に荼毘に付してくださいと頼みました。 私は3月10日の夜中のあの時間になると眠れないのです。 恐ろしさがよみがえり、いつもまんじりともせず夜を明かしてしまいます。 |
■ 東京大空襲 ■ 昭和20年3月10日深夜0:08から2:32まで、 マリアナ諸島から飛来した344機の低空侵入のB29によって 隅田川沿岸地区を中心にした地域に大量の焼夷弾が投下された。 折りからの強風によって大火災となり東京下町は焼け野原となった。 被害は警視庁発表では83,793人であったが 実際には10万人以上の死者が出たといわれている。 火災の規模は凄まじく火事嵐の炎は上空2000メートルに及び、 B29の機体は煤だらけになり遠く離れたマリアナからも炎が見えた。 火炎に煽られ川に飛び込んで溺れたり凍死する人も多かった。 アメリカ兵の言葉「ダンテの神曲より地獄だったよ」 |
1945年(S20)1月に入り「戦争終結の用意をすすめるべき。」とする高松宮の言葉に
耳を貸すことなく、2月の同様の趣旨の近衛の上奏に対しても
「今一度戦果を上げてから」と拒否し継戦を主張(国体護持のため)した。
もし高松宮や近衛の申し入れに同意していたら、3月10日の東京大空襲や
その後の空襲、沖縄県民や広島、長崎の市民たちの多数の無念の死も
避けられたのではなかったか。
1937年(S12) 盧溝橋事件 〜日中戦争の発端〜 広田内閣が前年「支邦駐屯軍」兵力増強を決定し華北主要都市に派兵した。 豊台の一大隊は連日中国側の抗議を無視して夜間演習を実施。 7月7日 22:30演習が一旦終わり、伝令が各小隊と仮想敵に派遣されるが 仮想敵が敵と間違って空砲を発射。 その時竜王廟南側堤防より3発の実弾が飛来。 人員点呼すると初年兵1名が行方不明。20分後に帰隊するが 報告が遅れて不明情報が北京の連隊本部、天津の駐屯司令部まで行った。 7月8日3:00一木大隊が一文字山付近に集結。 また銃声を聞いたことから戦闘開始4:20 |
↓ 始めは一発の銃声から始まったよくわからない出来事がオオゴトになってゆき
政府、軍中央も当初は不拡大方針。 7月8日 兵力行使避けよと命令。 9日 閣議、現地解決の方針を決定。 それが・・・ 11日 参謀本部が関東軍、朝鮮軍の一部を華北派兵決定。 閣議で支邦側の計画的武力抗日なので所要の措置をとると声明。 12日 天津の新支邦駐屯軍司令官、香月清司中将、日本側の対応に憂慮。 |
↓ 陸軍も3ヶ月か長くても6ヶ月で終わると考えていたが
7月17日 蒋介石解決の条件を声明で出す。 中国軍内部に抗日運動拡がる。 28日 関東軍飛行機が保安隊兵舎を誤爆したことにより通州で保安隊反乱。 日本人居留民260名を惨殺。 8月7日 陸・海・外 三相で日華停戦を決定。 9月 近衛首相 国務と戦略の一致をはかり大本営設置を提起。 |
↓ なかなか終わらず戦火は広がり弾は尽き本当の敵はロシアなのにと焦る。
10月22日 近衛文麿首相らは第三国の和平建国の斡旋をりようすることに。 イギリスの申し出を陸軍が反対してドイツに頼む。 11月2日 広田外相 駐日大使ディルクセンと会談。支邦事変対処要項を提示。 @華北と上海に非武装地帯を設定 A満州国承認。 B日中間には防共協定締結。 C華北は中国の行政権下におくことは承認するが海運・航空・鉄道・鉱業 その他、日中合弁の事業をおこすこと。 12月2日 蒋介石、駐華大使トラウトマンに領土主権の保全を条件に日本の要求を 和平会談の起訴として受け入れると回答。 21日 ドイツ大使あての回答文閣議で決定。以下を追加。 @華北・内蒙古に自治政権を作ること A華中の日本占領地域を非武装地帯とする。 B賠償金を要求。 |
↓ トラウトマン工作により和平の道が開けつつあったが・・・
12月12日 北支方面軍、北京に中央政府として中華民国臨時政府樹立。 その後翌38年3月28日 南京に中華民国維新政府樹立。 |
↓ 勝てば官軍。態度が豹変。
38年1月13日 蒋介石 諾否の回答前に具体的内容知りたいと回答。 日本政府は拒否回答とみなす。 1月16日 近衛声明。帝国政府は今後、国民政府を相手とせず。と切って捨てる。 文相の木戸でさえ戦争継続を言い出す。 |
↓ 戦争に勝つことによって全てが肯定され関東軍の暴走の萌芽となった。
1938年 張鼓峰(ちょうこほう)事件 ・・・国境付近で起きたロシアとの国境紛争 板垣征四郎が天皇に張鼓峰に部隊を送る命令を出してくださいと天皇に頼むと 「今まで出先で勝手なことをしてきた。朕の兵は一兵たりとも勝手に行ってはいけない」 |
★ 都市周辺の貧民層が労働源
★ 幼年の子どもたちが家計を支えていた
職工の過半は10才より、14,5才の児童なり。なかには8才なるものあり。
はなはだしきは6,7才なるも見ること多し。
とくに軸並職工のごとき、その七、八部までは10才未満。
世間の児童は学校に入り、いろはを習うに苦しめるを、マッチ工場の児童は
軸並枠のあいだにはさまり、左右をきょろきょろ眺めながら軸木を並べつつあるなり。
けだし日本の各種工業のうち幼年職工を使役すること多きは、
マッチ工場と段通の二者か。
(横山源之助「日本の下層社会」岩波文庫)
1895年(M28) | ||
生産量 | 25,500万ダース | 550万円 |
輸出量 | 20,000万ダース | 460万円 |
210の製造所 ほとんどが大阪・神戸
職工数 | 男 | 女 | 内職者 |
大阪府 | 2,703 | 4,836 | 4,314 |
兵庫県 | 1,765 | 4,228 | 24,000 |
★ 繊維産業が日本の近代化・工業化を促進した
1899年(M32) 輸出品目 割合 | |||
第一位 | 第二位 | 第三位 | 合計 |
生糸 29.1% | 綿糸 13.3% | 絹織物 8.1% | 9,150万円 50.5% |
(参考資料 第四位・石炭5.2% 第五位・緑茶4.6%)
織戸数 | 男工 | 女工 | 生産量 |
637,500余戸 | 57,300余人 | 921,300余人 | 8,605万余反 約9,150万円 |
★ 桐生、足利地方の労働実態 〜 約3万人〜
・早朝から夜10時頃まではごく普通で、家によっては11時まで残業させたり
朝4時頃から働かせることろもあった。
・米と麦と同量の「ワリ飯」で、朝と晩は汁もあったが昼にはつかなかった。
汁といってもいつも塩辛くしたみそ汁の中へ菜っぱ、秋には大根の刻んだものとか。
★ 大阪紡績会社の募集要領 (甘い言葉で誘い実態は搾取)
応募工女 心得 (現代文になおしてあります) 1. 工女は12才から35さいまででからだの達者な者に限る。 2. 年期は3年。入るとき契約書を入れてちゃんとやってもらうが どうしても事情がある時は5週間まで休暇をもらうことが出来る。 その時は入社の時の支度金を一時返してもらう。 戻ってきたらまた下げ渡す。 3. 仕事は糸紡ぎで大きな機械を使って楽だから、毎日12時間勤務で 1時間の休憩がある。1週間ずつ昼勤と夜勤を交代する。 日曜、祭日、お正月、お盆など休日はたくさんある。 4. 入社する者の旅費は会社持ちで、大阪に着いたら寄宿舎に住まわせ 寝具食器までも無料で貸しだし、食べ物は炊事係が煮炊きして その賄い料は一日一人8銭かかるが、見習い中はタダで 日給11銭以上とるようになった者からは6銭ずついただく。 5. 寄宿舎には風呂場があって朝夕無料で勝手に入ることが出来る。 6. 寄宿舎には毎月説教がある。また学校があって毎日仕事の合間に 読書そろばん裁縫までも教えてもらえる。 7. 積み金は保証積み金、貯金積み金とある。 保証積み金は日給12銭以上の者より賄い料を差し引いた残りの 1割五分づつ積み立てて満期時まで渡さない。 貯蓄積み金も1割5分、親元へ送金するか衣服などを買う時以外 渡せない。残り7割は本人に渡す。 |
★ 実際には・・・
旅費は一時立て替えにすぎず、保証積立金は満期以前にやめれば没収。
寄宿舎も12畳、15畳を一室とするが30畳、40畳の部屋もあった。
脱走する子はお金もなく線路を歩いて故郷に帰ろうとしたりしたが
工場はヤクザを使って連れ戻したりした。
★工女との問答
(現代文になおしてあります) ○ 叱られることはあるの? ● 事務所の隣の部屋に連れて行かれて怒られたり叩かれたりする。 改心するまで一日でも二日でも暗い部屋に置いておかれる。 ○ ご飯はくれないの? ● くれない。 ○ その他に罰があるの? ● 泥棒したら、丸裸にされて肩に「泥棒」という旗を立てて工場を引きまわし 食堂などに連れてゆき「皆こんなことをするな」と言う。(中略) この春隣の部屋の者が70銭で買った下駄を盗んでばれた。 そーしたら丸裸にして「イモジ」を取り肩に「下駄泥棒」と書いた赤い旗を立て その下駄をしばりつけて工場中を引きまわした。 ○ 7、8才の幼年工の仕事は昼だけ?夜も? ● 夜も。昼は監督がやかましいから掃除するの。 夜はゆるいから掃除をさぼるの。 私たち冬でも単衣一枚だよ。 ○ 一緒に徹夜するのか? ● するけどお菓子をくれないと行かないということもある。 その時は監督がお菓子をくれるの。 でも、しょっちゅう言うと叱られる。泣き泣き出るの。 ○ 工場で眠くならない? ● 眠ったら叱られるし叩かれる。 ○ 給金はくれるの? ● 8銭くれる。食料7銭取られるから1銭だけ残るの。 注・当時(1889年・M32)の郵便ハガキ1銭5厘 封書3銭 ○ 子どもも7銭なの? ● 同じだよ。(略) ○ 子どももたくさんいるの? ● 7、8才の子が10人ばかりいたよ。10才くらいたくさんいる。 (農商務省「職工事情」1901年・M3) |
社会問題化してきたので政府は工場法を制定せねばならなくなった。
★ 工場法 ・・・紡績業界の反対で施行が5年後と異例の遅さになる
・年少労働の制限 12才未満の労働禁止。但し工場法の志向の才から引き続き就業中の者については 10才以上の労働は認める。(第2条) ・深夜業 女子、15才未満の者は禁止。午後10時から午前4時(第4条) ・労働時間 女子、15才未満の者、12時間以内。 但し施行後、15年間に限り、2時間以内の延長は承認(第3条) |
※ガラス工場も10円20円の前借りで8才になるかならない子どもを徒弟として
雇い入れていた。
〜参考・引用文献〜 松本三之助 「記録現代史 日本の百年3」筑摩書房 他
村の女達が手織りしていた着物の生地も町の工場でつくられるようになった。
砂糖を使わない家が無くなってきた。
生活が洋風化。小学校の先生や村役場の役人が洋服を着るようになった。
自給自足であった農村でも、日清戦争の勝利の後、商品が次々入り込んできた。
自作農 | 小作農 | |
1890年(M32) | 48% | 21.1% |
1899年(M32) | 53.2% | 25.1% |