2004/12/12
          今回のレポートは出席者のOさんがまとめてくださいました。



    「兄が出征する日の朝、
  かまどの前で泣いている母を見て非国民だと思った。 
  そのことを母に詫びないうちに母を亡くしてしまった。 
  今墓参りの度に謝っている。」                  


  兄上や母上の話をされる時、
  善方先生の目がうるみます。



   「君死に給うことなかれ」 そのメッセージと時代背景について

与謝野晶子のこの歌を2級史料とする歴史学者もいるし、載せてない教科書もあるが、
歌の強さと時代背景を踏まえた内容という両面から史料としての価値は高い。(資料No.16)


歌が発表された当時の旅順の戦況



非常に厳しかった。
8月に、乃木希典を軍司令官として旅順総攻撃が行われたが、
日本軍は旅順要塞の防備についての確実な情報を把握していなかった。
(トーチカ、機関銃の存在知らず)また、要塞攻撃法(正面攻撃か、背後からの攻撃か)
についても周到な準備が用意されていなかった。

第1回の正面からの攻撃は成功せず、総兵力5万700余人中死傷者1万6000人の
大きな犠牲を出す。
背面にある203高地攻撃も行ったが失敗し、死傷者4800人を出した。
更に10月に第2回、11月に第3回の総攻撃を行うが失敗、第2回攻撃では3800人、
第3回攻撃では1万700人の死傷者を出した。
第3回攻撃の後半でようやく戦術の効果をあげはじめた日本軍に対し、
露軍が降伏を申し入れ、翌年(1905年、M38年)1月に旅順に入城する。

しかし、この間日本軍は13万名の兵をつぎ込み、6万人近い死傷者を出した。
このような惨状は内地にも伝えられたから、兵士も旅順への配属と決まると意気消沈した。
司令官の乃木将軍に対しては「更迭すべし」の声も出たが、
明治天皇の信任が厚く出来なかった。


(コメント)日露戦争は日本軍の華々しい勝利というイメージで伝えられることが多いが、
       実情は日露両軍に大量の死傷者を出したひどい戦争だったことを実感!


テープを聴いて解説を聞く


  君死にたまふことなかれ
 (旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

  晶子26歳。
  陥落前の厳しい時期の旅順にいる弟、
  籌三郎(ちゅうざぶろう)24歳。
 ああをとうとよ、君を泣く、
 君死にたまふことなかれ、
 末に生まれし君なれば
 親のなさけはまさりしも、
 親は刃をにぎらせて
 人を殺せとをしへしや、
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや。
第1連

姉として弟への切実な思い。後段の「人を殺せとをしへしや」は、戦争への懐疑、戦争で人を殺すことは正しいことなのかという疑問を強く表現している。
 堺の街のあきびとの
 旧家をほこるあるじにて
 親の名を継ぐ君なれば、
 君死にたまふことなかれ、
 旅順の城はほろぶとも、
 ほろびずとても何事ぞ、
 君は知らじな、あきびとの
 家のおきてに無かりけり。
第2連

最後の2行には、職分の独立が明示されている。戦争は軍人の仕事、商人のやることではない。商人の論理をもって戦争を黙殺している。
 君死にたまふことなかれ、
 すめらみことは、戦ひに
 おほみづからは出でまさね、
 かたみに人の血を流し、
 獣の道に死ねよとは、
 死ぬるを人のほまれとは、
 大みこころの深ければ
 もとよりいかで思されむ。
第3連

天皇に対する率直なことば。大胆な表現。天皇を神としてではなく、人間として対等の立場においている。(大町桂月が賊臣、不忠者と批判)
 ああをとうとよ、戦ひに
 君死にたまふことなかれ、
 すぎにし秋を父ぎみに
 おくれたまへる母ぎみは、
 なげきの中に、いたましく
 わが子を召され、家を守り、
 安しと聞ける大御代も
 母のしら髪はまさりぬる。
第4連

前年に父を亡くし、母はこの時56歳で病勝ちであった。晶子は3年前に家を出ている。傾きかけた店の経営が母一人の肩にかかっている。居ても立ってもいられぬ母への思い。
 暖簾のかげに伏して泣く
 あえかにわかき新妻を、
 君わするるや、思へるや、
 十月も添はでわかれたる
 少女ごころを思ひみよ、
 この世ひとりの君ならで
 ああまた誰をたのむべき、
 君死にたまふことなかれ。
第5連

弟は前年23歳で17歳のせいと結婚し、せいはこの年女の子を出産している。わずか18歳のせいを哀れに思うこころ。
雑誌「明星」の1904年9月号に発表

 全体に流れるものはロマンティシズム。たった一つの生命としての個人の尊重。
 当時の主流であった国家主義に対峙する、個人主義。
 生存権(人として生きる権利)の主張(現在の憲法25条の精神)。



■ このような晶子の思いを、「新しい歴史教科書」では下記のように紹介している。

  
『晶子は戦争そのものに反対したのではなく、
   弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を案じていた。
   それだけ晶子は家の存在を重く心に留めていた女性だった。
   大正期の平塚らいちょうらの婦人運動を当初支持したが、晶子の人生観や思想そのものは、
   家や家族を重んじる着実なものであった。』


   全く見当違いの解釈である。


  (コメント)有名な歌なのにこんなにしっかり読んだのは初めて。
         しかも、歌をテープで聞くことで文字だけとは違う感慨を覚えました。
         歌の真意もよくわかりいろいろな意味でとても感動しました。


歌への批判と晶子の反論



当然この歌への批判が湧き上がる。
代表的なものは、大町桂月 「太陽」10月号で賊臣と批判。

晶子は、これに対して「明星」11月号に「ひらきぶみ」を執筆してただちに反論。

  「歌は歌に候。
  歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、
  まことの心を歌ひおきたく候。
  まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。
  まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。」
 

                        (ひらきぶみ、資料No.16)

『あの時代にあの歌を詠む勇気と
批判に対する歌詠み(表現者)としての堂々とした態度は立派だ』

                        (NHKビデオにて池田理代子談)

■ 桂月の考え

    国益優先、国家中心主義。欧米諸国と肩をならべるべし。 
    戦争に勝つことで国際的に認知される。

   「人生は戦争である。戦争のあるところ、そこに人の活動あり、
    進歩あり、幸福ある也。
    平和は理想なるべけれど、もし平和のみの人生とならば、
    活動はなく進歩なく、希望なし、即ち徒死す。」


これは当時の多くの人の考えであった。桂月は「太陽」12月号で更に反論。

  
(コメント)桂月の考えは今も多くの人に脈々と受け継がれています。
        とくに政治的指導者は桂月だらけのように見えます。
        国より天皇より個人の命を大事にする
        人間中心主義を広げる努力をしなければ、
        との覚悟を新たにしました。


作品の背景を探る 歌を生みだしたもの (資料No.21)


1)うぶや産屋日記(弟への手紙、与謝野晶子全集第12巻より)
  死を美しきものとして美化している弟に対して、その考えを認めながらも
  親子の縁は一世のえにしであるから、「八月に初声あぐる人を必ず抱きやらむと念じ給へ」
  と書き送っている。間もなく生まれてくる赤ん坊のために命を大事にしろ、と言っている。
  この思いが歌の動機になっている。
2)平出修(明星派歌人)が、『所謂戦争文学を排す』を『明星』6月号に書いている。
 「戦争文学なるものを以て(中略)大言壮語して一時を瞞過するにすぎず。」
  平出は、鉄幹の同志であり、晶子のよき歌仲間として親しい交友があったと見られるから、
  戦争文学に対する考え方を共有したと思われる。
3)明星派歌人たちの多くが反戦の歌をうたっている。
 親の決めた結婚に馴染めず、晶子と同じように家を出た女性歌人もいる。
 この人々の中にあって、晶子が反戦の思いを歌うことは極く自然であった。
4)トルストイ(76歳)の非戦論"汝ら悔改めよ"という日露戦争に対するキリスト教的非戦論が
  平民新聞に掲載された。
 戦争を野獣より悪く、互いの命を奪うことに専心している。 
 欺かれた人民が我に返ってこう叫ぶべきだ。
 『汝、心なき露国皇帝、○○皇帝(注:日本皇帝のこと)、大臣、牧師、僧侶将官、記者、
 投機師、其他何と呼ばるる人にもあれ、汝等自ら彼の砲弾銃弾の下に立てよ。
 我等は最早行くを欲せず、又決して行かざるべし』
 晶子は16歳の頃トルストイの本を読んでいるから、間違いなくこの記事も読んだだろう。
5)中里介山は"乱調激いん韵"を平民新聞に発表。
 「(前略)万歳の名に依りて死出の人送る。我あにいきどお憤らんや、国の為なり君の為なり」
6)木下尚江は"戦争の歌"を平民新聞に発表。
 召集兵「残る妻子や白髪の親の 明日を思えば 心が裂ける 名誉々々と騒いでくれな、
 国の為との世間の義理で、何も言はずに只だ目を閉じて、涙かくして 死に行く」

   (コメント)晶子が生きた環境を丁寧に見れば、晶子が『戦争に反対したのではなく』という
         「新しい歴史教科書」の解釈が全く当たっていないということがはっきりします。

                        永遠の文学青年の善方先生

                       生き生きとお話する善方先生


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