5 2004/11/14
善方一夫先生。
17才の春、小学校の教壇に立った時から
内から私を支えてくれたのはルイ・アラゴンの
「学ぶとは胸にきびしさ刻むこと。
教えるとは共に希望を語ること。」でした。
いまでもアラゴンの言葉は、私に生きる勇気を
与え続けてくれています。
台湾と樺太の植民地支配
日本は日清戦争で台湾を、日露戦争で樺太を手に入れたが
南進基地として台湾の方が重要度が高かった。
いかにして植民地支配をしたのか。
台湾
北に大国ロシアが控えているので植民地を広げるには東南アジアに行くしかない。
そのための基地として台湾が絶対必要と海軍が強く主張した。
しかし台湾では漢民族・高砂族の抗日武装闘争が続く。
総督 軍政の失敗から民政へ移行 1895年
(M28)初代
樺山資紀8月6日から軍政をしくが、
共和政府と半年にわたる戦闘で日本軍の被害甚大
戦死164名 病死4,642名 罹病者26,994名 失敗二代目
桂太郎台湾島民の激しい抵抗にあい植民政策は不可能
○講和条約後2年間島民には国籍決定の猶予を与えた 〜97.5.8
中国本土に帰還者多く南部では一村丸ごとも多々あり
○台湾統治に手こずり財政難に陥る
台湾軍事費1895年2,800万(国内一般会計のの1/3)
精糖業が入っていたフランスに1億で売却という案も出た 失敗三代目
乃木希典1898年
(M31)四代目
児玉源太郎後藤新平(内務省衛生局長)を民政局長に迎え治安回復につとめ
生物学の原則にのっとりその体質にあった処方(旧慣を重んじる)やり方で
植民政策の基礎を確立した
従来の強圧一点張りの治安対策を改めた 成功
■後藤新平のやったこと■
■旧保甲制度の復活(10戸を1甲 10甲を1保とする) 行政の管理強化
・戸口の整理 ・旅行者及び保甲者の移動報告の義務
・連帯責任として壮丁団を組織しゲリラ、自然災害、火災に対する防御措置
ゲリラ鎮定 1897〜1901年捕虜8,030人 殺害3,473人
1902年 死刑539人 殺害4,043人
■アヘン政策(当時の台湾島民はアヘンを日常的に得ていた)アヘン行政成功
・アヘンを政府専売特許にして老齢の中毒患者のみに許し
その売上金を植民衛生の費用に充て本国に依存しない財政自立を目指す
(その他に食塩・樟脳も入れて政府三大専売法で台湾財政は1905年独立達成)
・台湾阿片令 1897.4漸次台湾全島に施行
■土地調査事業 国家財政の基本の地租を確保
・1905年 土地登記規則を制定し、土地所有権移転の方式を定め
台湾に対する資本投下を一層すすめるとともに地租の増徴額は3倍半に
(大地主の大租戸の大租権を取り上げ大多数の小作人の小租戸に所有認める)
・林野調査による森林資源の確保も進んだ。
・米作は糖業に比べると政策として消極的(土着商人と地主階級の勢力温存)
■独占資本の導入による製糖業中心とする近代産業の始まり 産業育成
・三井物産が直接取引することで外国資本を徐々に排除
・1902年三井製糖工場建設(〜1910年までに完全に外国資本を駆逐)
・1910年台湾製糖業連合会(カルテル)を結成し独占資本による糖業支配を確率
・糖業政策には一部の大土着資本の動員もはかった
■植民地としては唯一の発券銀行である台湾銀行設立 経済が安定し自立
■1906年(M39)台湾に初めての鉄道敷設 交通網の整備
↓
■台湾にとってメリットのある植民地政策をとることで受け入れられた■
☆管理人コメント まるで北風と太陽のよう ブッシュも武力でというのはやめていただきたい!
※その後の後藤新平
経済的な力量をかわれて初代満州鉄道総裁に就任(エリートコース)
第七代東京市長(都知事)に就任し、関東大震災後の復旧処理にあたる。
大正期に外務大臣を務め「大アジア主義」を唱える
日本の資本と技術を移し労働力を利用し鉄道を作って
アジアの植民地を拡大すべし
シベリア出兵の急先鋒
1930年(S5) 霧社事件 = 負の出来事
台中州霧社の高砂族が、土地取り上げ、原住民無視の労役、差別待遇から
大暴発し日本人134名殺害 軍隊が出動して鎮圧
瀬戸内海の島で内密に作られていた毒ガスが試用された
樺太
日本帝国主義の侵略の方向からはずれており取り組みは消極的であった
水産加工品・石炭・パルプ製紙業(王子製紙)など産業開発は低調
1875年
(M8)千島樺太交換条約調印
樺太の支配権を帝政ロシアに委ねた後も樺太は北洋漁業の中継地点であった1905年
(M38)9月ポーツマス条約 1906年
(M39)軍政支配始まる
※人口12,361人の内訳(日本人10,806人 外国人264人 原住民1,291人)1907年
(M40)樺太庁設置 長官(陸軍将官)は内務大臣の指揮監督下 格下
(台湾・朝鮮は天皇直隷の総督が天皇の代理として治めた)
※ 原住民の民族的反抗が統治を阻害する不安がなかった
※ 植民地としての価値が希薄であった
「支那」という呼称について
いつから呼ばれるようになったのか
BC221年(今から2300年前)始皇帝が中国統一
秦の威光はインドにまで届く
秦(chin)の国名を現す発音を聞いて
仏教研究のためインドを訪れた中国人僧侶が
「全那」「脂那」「支那」などの漢字を当てはめた
外国人の中国に対する呼称となった
日本では江戸中期以降(18C〜)用いられた
※清王朝(1616〜1912)
19世紀 日本人の中国に対する意識の変化
佐藤信淵(のぶひろ 思想家・経済学者)の二つの著述
1808年刊 海防策 (この頃日本は鎖国中)
「大清国は強大にして(略)兼併の志を起こさば其患の大なること、
ただに魯西亜に比すべきものならんや・・・・・
中国は大国なのでたとえへりくだっても同盟国として貿易するのが急務
1823年刊 宇内(うだい)混同秘策
「皇国より支那を征伐するには節制さへ宣きを得れば
五、七年に過ぎずして彼国必ずや土崩瓦解するに至る(略)
故に皇国より他邦を開くには
必ず先ず支那国を呑併するより肇る事也」
準備さえすれば中国は必ずダメになるから
まず中国を植民地にしよう
↓
15年の歳月で清に対する評価が急降下している
1820年代アヘンの害が中国全土に広まる
1729年禁煙令公布後効果上がらす国力衰退
明治に入ってから
明治に入ってから「支那」という呼称が日本人一般に広く用いられる1870年(M3)刊 地理教科書「與地誌略」 (現代文に意訳)
「数千年来君主政治ノ制令ニ基キ
下民ヲ駕御スルガ故ニ開化ノ風教世ヲ・・・
数千年も君主政治の制令に基づいて
民を自分勝手に使っていたので風俗教育などが進歩せず
国民も愚かになってしまった。またその民たちも
狡くて頑固で罪人が多くて残忍で本当にどうしようもない。
また古いことを尊び今を卑しんで自ら尊大に中華中国と称して
外国の事情を知らず進歩するどころか
日々卑しく衰頽さえしている。
☆管理人コメント 教科書でこんなのを教えられたら・・・
大正に入ってから
日本で定着してきた「支那」という呼称に中国人の抵抗感強まる
特に1915年(T4)21ヶ条要求以降強まる
昭和に入ってから
1930年(S5)
中国国民政府外交部は今後「支那」の語を使用した公文書を
受理せずと声明を出す
それに対する日本側の意見
今日「中華」という名称は諸外国は夷狄視した用語である。
すなわち自らを尊くして、他人を卑しめる意味となるので
列国に対して無礼至極の語である。
したがって支那はむしろ「支那」なる語の使用を
云々する前にまず「中華」の二文字を妥当の文字に改めた方がよい。
「チャイナ」という語には文句をいわず
「支那」という言葉だけを問題にするのは不当である。
☆管理人コメント びっくり!いったい何様!?余計なお世話だ!と思いますが。。。東京日々新聞に掲載された投書
○支那という語が侮辱の意味をふくんだものでないことは
いうまでもない。しかしそれがかの国の正しき名でないために
あだ名を呼ばれるが如き不快の念を起こさせるのかもしれない。
われわれとしてはその国名が美しすぎることをなじり
改称せんことをすすめるよりも、
彼等の見て正しいと思ふ名を呼ぶやうにすべきであろう。
それが民族的交際の正しき礼儀である。
○人の姓名がその本人の性格とは反対を現していようとも、
誰もその通り呼ばないものはない。国名も固有名詞である以上、
傲慢だとか無礼だとか言ってしりぞけ去るべきではなかろう。
そう言えばわが「日本」という名称も外国人から見れば
或は尊大振った名称であるかもしれない。
☆管理人コメント 良心的意見に救われる思い。
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