8 2005/1/10
〜講座の合間の立ち話から〜
先生の奥さまもこのサイトをご覧になって
外でどんなことをなさっているのかが
わかるようになったと喜んでいますと
お話ししてくださいました。
奥さまは日頃は合唱や刺繍に打込んで
マスターズの競技でも優勝なさるなど
充実した日々を送っていらっしゃるそうです。
お互い好きなことをやっているだけと
先生はおっしゃっていましたが。
与謝野晶子とその時代
ロマン主義文学が生まれた背景 (資料No.22)
日清戦争で清国が敗れた影響
■中国文化に対するコンプレックス(教養=漢文)の呪縛から解放され
自分たちの言葉でという気運が生まれた。
明治中期より教育が浸透
■ 1890(M23) 小学校の四年制義務化
■ 1892(M25) 就学率 男70% 女36% ←教育費の個人負担大きかった
■ 1907(M40) 小学校六年制になる
就学率 97%(3%は障害者) ←教育費の国費負担が増えたおかげ
文化面の発達
■ 1880(M15) 自由新聞が写真掲載 それまでは絵のみ
■ 1885(M20) 自由民権運動が活発になる 絵入り新聞
■ 1890(M25) 萬朝報 最初は反戦の論陣を張っていた
■ 1895(M30) 東洋経済新報(石橋湛山)
■ 1899(M31) 中央公論(前身の雑誌名「反省会雑誌」より改題)
1880〜90年代は新聞雑誌の文芸担当者達が庶民に文芸を伝えていった。
自由民権運動と共に庶民が新しい人間の生き方を模索するようになっていった。
ハード面の発達
■ 1890(M23) 東京−横浜 電話局設置(この年富山では米騒動がおきる)
■ 1891(M24) 東北本線青森まで開通
↓
人間の個性、内面の真実を訴え、心情の発露、心の叫びで古い封建的な掟から
自我を解放するロマン主義が時代に受け入れられて行く。
樋口一葉(たけくらべ、にごりえ) 島崎藤村(若菜集) 正岡子規(俳句)
短歌・浅香社の落合直文一門(弟子に与謝野鉄幹や大町桂月) など
あらゆるものに囚われず自由に謳った与謝野晶子23才の作品「みだれ髪」に対し
佐々木信綱は娼妓夜鷹の歌のようと評した。
評論家達も「淫らな毒のある歌」と酷評したが当時の若者達には大人気。
教科書に見るロマン主義の記述 山川出版
詳説日本史日清戦争前後には、北村透谷らの「文学界」を中心に人間の感情面を重んじるロマン主義文学が盛んになった。 実教出版
日本史B北村透谷ら「文学界」同人は、」個人の絶対化と内面的真実の尊重を主張するロマン主義文学運動のなかで、人間の精神活動を社会や国家の制約から独立させ自由な人格を発展させることをめざして近代文学の成立に道をひらいた。
明治政府の家族制度の確立 (資料No.22)
庶民層の政治や文化面に対する目覚めのなかで
近代国家の基礎固めのために家族制度の確立をはかった。
家族は戸主に絶対服従 国民は天皇に絶対服従 の縦社会の構造 ”姓”は天皇よりのさずかりもの
「家」トハ一ノ氏ヲ以テ独立シテ人別ノ戸籍ヲ設ケタル者ノ系統ヲ云フ(民法)
↑
戸籍の中にのみ存在
戸籍法 1871(M4)4.4
1872(M5)2.1 実施(壬申戸籍)
戸主権の成立・・・家族の婚姻の同意権、居住指定権、親権によって家族を拘束
戸主の地位と財産の継承が家督相続
(女性は禁治産者扱い 離婚する時は何ももらえず出て行かねばならない)家父長権の強化
・国家の家長 天皇の神格化
・一家の家長 家族にとって絶対的存在
当時求められた女性像
女性は生まれながらに男性のために尽くす存在のように規定されている
封建的な江戸時代でも女性が働き手であった農工商ではこれほどではなかった女性の美徳
・ 温厚従順
・ 貞操堅固
・ 親、夫に逆らわず嫉妬を慎む。家に籠もり育児に専念する。
学校で教えられた数え歌
♪ニツトヤ、ふた心なき節に習うて夫に身を尽くせ身を尽くせ
♪五ツトヤ、いかなる夫に仕えても機嫌をとるのが妻の役、妻の役
1872(M5)女性断髪禁止条例 { 1871(M4)断髪令 男性のチョンマゲを切る法律 }「嫁」は「姑」がもらうもの
その一例
1884(M17)徳富蘇峰は旅に出ている留守中に両親が”妻”をもらっていた当時の女学校 女紅場(ジョコウバ)が前身 修業年限3年 (男子は5年)
6教科(修身・算術・地理・歴史・読書・習字・家政)
授業の大半は家政で主に裁縫だった若い婦人の男子に接する心得 1909(M42) 女子教育家懇話会発表 10ヶ条
1.凡てッ男子と面接する場合には適当なる同席者を要す。もしやむを得ずして
単独にて面接する場合には、開きたる所においてすべし。
2.単独に居住する男子を訪問すべからず。但しやむを得ざる場合には
適当なる同伴者あるを要す。
3.漫りに青年男子と文通すべからず。又未知の人より文書を送られたるときは
自ら開封せずして適当なる保護者に挿しだし其指揮を乞ふべし。
5.日没後は止むを得ざる場合の他は、単独で外出せざるをよしとす。
6.仮令近親の間柄と雖も適当なる婦人の保護者なき家庭には宿泊または
止宿す可らず。
7.途上または車内などに止むを得ざる場合の他、未知の男性と対話し、又は
世話を受くべきものにあらず。
(コメント)今の時代では考えられない酷い話で読んでいると頭にきて明治時代の女性に同情しました。
でも未だにこの時代を懐かしむような時代錯誤な発言も聞きます。
お互いを尊重しそれぞれが自分らしく生きていらっしゃる先生ご夫婦は正反対な生き方だと思います。
☆そんな時代にもいたキャリアな女
20世紀初頭 東京府立第2高女 青山(山川)菊江さんの語り
「大きくなったら何になりますか」「私は賢母良妻になります」
作文に議会のことを書いて提出後「議会のことは誰に教わったか」と聞かれ
「新聞でしりました」と答えると
「あなたは新聞を読むのですか?お母さんはご存知ですか」と聞かれました。
↓
偏見に満ちた社会で婦人解放運動を頑張る。戦後初代労働省婦人局長になる。
☆当時は恋愛に市民権がなかった
社会が女性を男性の従属物のように規定したので恋愛も対等な関係でなかった。
恋愛は低俗と卑しめられた。色街は男社会の負の遺産。
与謝野晶子という存在 (資料No.17)
1878年(M11)12月7日堺市甲斐町の裕福な和菓子屋「駿河屋」に生まれた晶子の家族構成
父 鳳 宗七(ほうそうしち)老舗の羊羹屋三代目。
代々早世したりした長男でなく次男が家を継いできた。
議員もやったり外に出て行く人だったが家にたくさんの蔵書を持っていて、それも晶子の文学的な才能を開花させた要因となる。父の前妻 : 美しかったが店の切り盛りする才覚がなく離縁された。 母 つね。数学的なセンスがあり商人向きな才覚があった。 姉 輝。前妻の子。 姉 花。前妻の子。一度外に出ていたが14才で引き取られる。 兄 秀太郎。母の理数系の遺伝子を受け継いで東大で物理学の教授となる。 兄 : 晶子誕生の2ヶ月前に1才2ヶ月で死亡。 本人 本名 鳳 志よう。父32才母30才の時の子ども。
男が生まれるのを望まれていたが女だったし器量もいまひとつとガッカリされる。
生後2ヶ月で母の妹宅に乳母とともに預けられたが2年後弟誕生後生家に戻る。弟 籌三郎(ちゅうざぶろう)「君死にたもうことなかれ」と歌われた弟。
日露戦争後、無事帰還して家業を受け継いだ。妹 里。
晶子の文学者への歩み
1981(M14)4月幼少より賢かったので父の意向で3才で境宿院小学校に入学したが、余りにも小さすぎて休学し6才で再入学。小学校では”いじめられっ子”だった。 父の薦めで樋口朱陽の漢学塾に9才で入学。他に藤間流の舞踊、琴、三味線などの稽古もした。 1888(M21)宿院小学校を4年終了し高等小学校に入学したが間もなく親切の堺区立女学校本科に転入学。(後に市立堺高等女学校に昇格。明治末期府立堺高等女学校。敗戦後府立泉陽高校) 嫁いだ次姉花のあとを受けて12才から店の帳場格子(けっかい)の中に座った。
夜中の12時まで店番したあと、消える電灯の下で両親に隠れながら一時間ばかり明かりをたよりに書に親しんだ。また蔵に入って父の蔵書の古典(源氏のほか宇都保物語、狭衣物語、枕草子、大鏡、近松、才覚、馬琴、種彦、芭蕉など)を片っ端から読みかじり「源氏物語は注釈書の「湖月抄」をたよりに全部読み上げた。
「紫式部は私の12才の時からの恩師であり二十歳までの間に
源氏物語を幾回通読したかしれません」
雑誌「少女」に大正年間に掲載された「私の生ひたち」
源氏をば十二三にて読みしのち 思はれじとぞ見つれ男を
また加えて「めざまし草」「文学界」「しがらみ草紙」(89年発刊、森鴎外 落合直文ら執筆)や東京の新聞など帳場格子で読みふけった。1892(M25)14才本科卒業後、補修科入学。 10代で家の仕事もこなし大人の苦労も経験した。
女性である故思うがままに学問出来ないもどかしさにも悩んでいる。
自分が帳場格子に座り続けることを条件に5才下の妹里を外国語を学べる京都府立第一高等女学校に通わせてもらうよう父母に頼んで取りはからう。
この頃小遣い銭で買い蓄えた博文館の活版本「日本文学全書」も店番のかたわら読みふけった。1894(M27)補習科を16才で卒業。敷島教会に入会、投稿し「晶子」の名を用いる。
髪五尺ときなば水にやはらかき 少女ごころは秘めて放たじ1899(M32)21才。浪華青年文学界(後に関西青年文学界と改称)堺支会に籌三郎と入会。
「よしあし草」に寄稿。鳳小舟の雅号で詩「春月」うぃ発表。短歌も投稿。
その子二十櫛にながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな
ゆあみして泉を出でしわがはだに ふるるはつらき人の世のきぬ
浪華青年文学界の機関紙の執筆陣に永井荷風、河井酔茗、与謝野鉄幹らがいた。
河井酔茗の作った短歌会”新星会”に仲間入り。(鉄幹、山川富美子も参加)
黒川の清き調をたえずききて しづかに眠る塚の主やだれ
うら若き読経の声のきこゆなり 一もと桜月にちるいほ1900(M33)正月 堺支会の懇親会が浜寺 鶴廼家(つるのや)で開かれた折りに河野鉄南の男女平等の対応に感動した晶子は鉄南にその後8ヶ月におよそ30通もの手紙を書く。
二三日も御返事御待ち申してもなき時は私は死ぬべく候 3/29付け手紙
やは肌のあつきちしほにふれも見で さびしからずや道をとく君 1900/10明星7号所載
同年4月与謝野鉄幹「東京新詩社」創設、機関紙”明星”を発刊。
発行人滝野。タブロイド判 16P 6銭(当時煙草のヒーロー一箱も6銭)
酔茗や鉄南とともに入会。”明星”の同人となる。
肩あげをとりて大人になるぬると 告げるや文のはづかしきかな 初投稿 2号に
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