7-1  2007/03/04


時代史からみた航空特攻 1
精神主義に凝り固まった日本軍はアメリカ軍についての情報もなく
戦術や武器なども時代遅れのものを使っていた。
奇襲攻撃で最初は連戦連勝であったのだが、そのうち連戦連敗となり追い詰められていった。
なぜ航空特攻が生まれたのか、その時代背景を学んでゆく。

中味は知りませんが石原都知事が総指揮で特攻隊の映画を作っています。
小泉前首相も知覧に行ったりして遺書を読んで感動したとしばしば言っていますし
安倍総理も著書の中で特攻を賛歌しています。
しかし航空特攻で亡くなった事実だけを捉えてゆくのでなく裏側に何があったのか時代史のなかで考えた時、安倍や小泉の捕らえ方が決して正しくない事をしみじみ学び取りました。



私事ですが、昨年11月に市の検診で異常が見つかり12月に有明の癌検に行きました。
2月にわかった検査結果は異常なしということでした。(一同拍手)
また皆さんと5年間学べるとホッとしています。
ちょっと遠いですがとても良かったのでなにかありましたら癌検はお勧めです。

  「きけわだつみこ声」より 〜戦没学生の想い〜

○ 上原良司

(慶応大 45.5.11陸軍特攻隊員として沖縄嘉手納米機動部隊突入、戦死22才)
「私は明確にいへば自由主義に憧れてゐました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。
之は馬鹿なことに見えるかもしれません。
それは現在日本が全体主義的気分に包まれてゐるからです。併に真に大きな眼を開き人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的になる主義だと思ひます。
戦争に於いて勝敗をえんとすればその国の主義を見れば事前に於いて判明すると思ひます。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は日を見るより明らかであると思ひます。
私の理想は空しく敗れました。人間にとって一国の興亡は実に重大な事でありますが宇宙全体から考えた時は実に些細な事です。・・・」

○ 中村勇
(東京物理学校 44.4ニューギニア、ホーランジャにて戦死21才)
「43.10.8 私は限りなく祖国を愛する。けれど愛すべき祖国を私は持たない
深淵を覗いた魂にとっては。・・・」

○海上春雄
(京大 45.1.9 ヒヒ島リンガエン湾で海上挺身隊として戦死 23才)
「父上様、母上様、元気デ任地ヘ向ヒマス。春雄ハ凡ユル意味デヤハリ学生デシタ。」

○林尹夫
(京大 45.7.28 四国室戸沖で戦死 23才)
「生をこの国に享けしもの なんぞ生命を惜しまん。愚劣なりし日本よ。
汝いかに愚かなりとも 我らこの国の人たる以上その防衛に奮起せざるを得ず」

こういう人たちの遺書を読み返す度に私たちは特攻で亡くなられた方たちを賛歌する事が、
褒め称える事が、あの方たちの遺した想いへの供養ではないというのです。
本当の供養とは、あの方たちが何を言い残して言ったのか、どういう志を継いでいって欲しいと
思ったのか、それを私たちが受け継がない限り本当に、無念の死を強いられた人たちの
遺した想いは生かされていかないと思われてならないのです。


“特攻作戦”開始前のアジア・太平洋戦争の状況

東京初空襲=大本営にとって晴天の霹靂

ルーズベルトは日本本土爆撃よにって一気に形勢逆転を狙っていた。
1942(S17)4.18早朝、日本から1200KMの空母フォーレットから16機のB25が飛び立ち
昼前に日本上空へ。日本は航続距離がそんなに長いとは知らず爆撃は翌日とみていた。
当日防空演習中で市民は本当の爆撃だとは気付かなかった。
低空飛行でばらばらで飛んできた飛行機を見て奪った米軍の飛行機を使った模擬演習だと思った。
水戸上空で東条英機の機とすれ違ったが気付かれなかった。
東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸、銃爆撃を受けて死者45名、負傷者400名以上、
家屋全焼160戸、半焼129戸。

日本の海軍の飛行機は小さい艦載機しか航空母艦に載っていなくて
米軍は大きな陸軍機で航続距離が長い。
軍部は予想していなかった本土初空襲に衝撃を受ける。

大本営陸軍部戦争指導班の『機密戦争日誌』によると
「国民ヲシテ始メテ大東亜戦争ノ渦中ニ入ラシメタルカ如キ感ヲ抱カシメタリ」
「二機ト云ヒ十数機と云ヒ100機と云フ」
などと混乱の様子が書かれている。


爆撃で亡くなった二人の少年は大阪の教育塔(子どもを救うため犠牲になった先生などが祭られるところ)に合祀された。記事は戦意高揚のためあだ討ちを煽るように書かれた。

        

16機の米軍機は15機は予定通り中国まで富んだが夜間悪天候で全機不時着又は墜落。
搭乗員の多くは落下傘で降下。1機はウラジオストックに不時着。

大本営9機撃墜と発表。中国占領地区のB25の残骸の一部を靖国神社に運び展示。

中部太平洋作戦への動き加速

本土を空襲から守るため、アメリカ機動部隊に打撃を与えるため海軍が中心になってミッドウェー島攻略と
FS作戦(アメリカ本土とオーストラリアを結ぶ輸送路に点在するニューカレドニア・フィジー・サモア各諸島攻略)


珊瑚海海戦 1942.5.7=日本軍の進撃がストップした転換点

1942年5月7日(本土空襲からまもなく) 日本軍はそれまでは連戦連勝だった。
連合軍の航空基地のポートモレスビーとガダルカナル島の間の海の珊瑚海で海戦があった。
世界の海戦史の中で初めての航空母艦主体の決戦であった。
航空母艦1隻ずつ失い五分五分の戦い。

二隻の航空母艦に艦載機117機載っていたが、実に61機失われた。

52%の飛行機と優秀なパイロットを失う。
         ↓
今まで勝ち進んでいたが、それ以降日本の占領地域は広がらない。


ポートモレスビーも占領できない。敗戦後日本軍の進撃は止まった。

 私的なことですが、沈んだ航空母艦に副長としておじが乗っていました。
 艦が沈む時は艦長は艦と共に死ぬことになっていておじもそうするつもりでしたが
 艦長が「これからの戦争は航空決戦で飛行機のパイロットの要請が大事なのだと、
 その事実を海軍省に伝えよ」ということでおじは救助の駆逐艦に救出されました。
 おじが海軍省にそのことを伝えると、その後閑職にまわされました。
 要するに負けた戦争の責任者として責任を取らされたのでした。

      
     日本海軍の問題点

日本の国は航空決戦で互角の勝負をしたけれど、日本の搭乗員の養成や
飛行機の生産量を考えたら大変な事になると艦長や副長は考えたが、
日本海海戦で勝った東郷平八郎の信念により
日本の海軍は「大鑑巨砲j主義」で海軍の考える最後の決戦は戦艦と考えていた。
その結果、当時世界最大の大和、武蔵が造られた。

山本五十六たちが第一次大戦の頃から航空決戦が最終戦と主張していたが
もし山本たちの意見が生かされていたら、あの馬鹿でかい戦艦を造るかわりに
日本は航空母艦とパイロットの養成にもっとお金をかけたでしょう。

軍令部総長が
「満州事変をおこせば日本は35億の金を必要とする。今日本が戦争を起こせば
35億の金かけることは無理だ。」と反対した時、
東郷平八郎はみんなの前で軍令部総長を罵倒した。
「お前は作戦計画を毎年陛下にだしてきたではないか。私はその作戦計画を認めてきた。」
今となってアメリカとの戦争が出来ないなんて何事だ!」
その結果軍令部総長は辞職。満州事変に海軍も同意する。


 新しい教科書に東郷平八郎が偉人として取り上げられている。
 教科書だけで授業する事は危険。昔騙された思いがある。
 かつての僕達を教えた先生達の同じ過ちを繰り返してはいけないと思う。


ミッドウェー海戦 1942(S17).6.5=情報筒抜けで敗れる

山本五十六に課せられた任務
 ■アメリカの太平洋艦隊の航空母艦を撃滅すること
 ■ミッドウェー島に陸軍を上陸させて占領すること(←これが敗北の原因となる)

山本五十六は「長期戦は敵の戦力を考えると避けたい。短期決戦」と考えた。
AF(ミッドウェーの暗号)作戦に関してはアメリカ軍は半月以上前に作戦の概要が知れていた。
日本は総力を上げてミッドウェーへ。

6月5日早朝日本軍攻撃開始。
南雲中将の陸上攻撃爆弾交換指示の直後に敵艦を発見し魚雷への付替えの指示で混乱。
アメリカの飛行機が日本の空母を攻撃し日本は大敗する。

敗因
 ■アメリカ軍による暗号解読
 ■開戦以来の勝ち戦によるおごり

日本軍は主力空母4隻 航空機300機以上 3500人以上の優秀な将兵を失ったが
大多数の国民にはその事実は知らされなかった。

高松宮が天皇に上奏するが天皇は聞き流したようで、その後高松宮は軍令部から転出になった。

Wikipediaミッドウェ-海戦

ガダルカナル 1942.(S17)8.7=粗末な作戦、悲惨な戦場

珊瑚海に近いガダルカナル島を航空基地にすればアメリカとオーストラリアに攻撃できると
ソロモン諸島の制空権のために海軍が陸軍に全く相談せずに飛行場を作ることを決めた。

8.1 滑走路完成。 現地の人の情報により、その直後にアメリカ軍が侵攻した。


  恐ろしいくらい残酷な戦争

アメリカ軍は兵士を守るために後方支援が届くところまでしか侵攻しなかったが
日本軍は食料は現地調達であった。
現地の子どもの腕を切り取って食料にしたりした。→現地の人の反感を買った。

日本軍は負けた兵士には食料を支給しない。そしてまた激戦地に送られたりした。
日本軍はガダルカナルにアメリカ軍が来ると思ってなかったのが圧倒的な米軍が来ると
日本兵はジャングルに逃げ込んだ。
約二千人の空港建設労働者達は簡単にアメリカ軍の捕虜になり即日アメリカ軍は無血占領。
陸軍は蒋介石を屈服させるため百万の大軍を動員する重慶侵攻作戦の準備に追われ
南太平洋へは1万の兵力をガダルカナルとニューギニアに分けて投入する。


8.18 第一陣、一木支隊がわずか900人だけで奪回のための作戦が開始された。
    大本営は本格的な反撃をS18年半ば以降と思い込み、敵兵力を二・三千人と甘く見ていた。
    一木支隊の誰もがアメリカ軍は弱いと信じ込んでいた。

8.21 未明攻撃、作戦はばれていて数十倍の火器で対応されて日本軍の一方的な敗北に終わる。

8.31〜9.7 川口支隊、6200人の兵力の第二陣が送り込まれる。
    正面攻撃は敵の兵力の三倍が常識とされているのに米軍の1/3のみ。
    正面突破は無理だと、背後からまともな地図も無くジャングルに分け入った。
    60丁の機関銃と20門ほどの大砲が分解されて運ばれたが基本的に夜陰に乗じて突撃する作戦。

9.12 夜、各部隊はバラバラに突撃し、またも十字砲火を浴び二晩にかけて突撃が繰り返されたが
    日本兵の血で染まった丘は、後に「血染めの丘」と言われるようになった。

現地に派遣された井本参謀は「敵防御は強く、兵力装備の増強無くば三度同じ失敗を重ねる」
と打電したが、大本営は弱音と受け取った。

辻正信参謀が派遣されたが、増強された2万6千人の米軍にバラバラな銃剣攻撃で壊滅。
三度の失敗にもかかわらず報告書には「アメリカ兵は弱い」
強気一辺倒の作文のような報告書を次々送った。
陸軍士官学校や陸軍大学校の教育に精神主義が一貫して流れていて
何よりも必勝主義のような風潮があった。

帰還した辻は大本営の作戦続行を密かに危ぶむ声が出ていたにもかかわらず
食料が尽きたガダルカナルの悲惨な状況を話したが撤退の進言はせず。
大本営の決断は一ヶ月以上遅れ、ガダルカナルの兵士達は飢えと病に苦しんだ。
兵士達に広まった生命判断。
「寝たまま小便するものは寿命はあと三日間。物を言わなくなったものはあと二日間。
 瞬きしなくなった者は明日。」

12.31 大本営御前会議でガダルカナルの撤退が決まるが、服部と辻の責任不問。

S18.2.7 日本軍撤退完了1万655人帰還。一人で歩けない兵士は島に置き去りに。

Wikipedia ガダルカナルの戦い

  日本軍の精神性

アメリカ軍は開戦の半年前から日本を調べ始め
日本語に堪能な者を数十人から1万人に増やす。
日本軍の歩兵は旧式の銃剣で日露戦争当時とかわらない装備でアメリカ軍と戦った。

何故日本軍はこのような時代錯誤に陥ったのか。
当時の日本人は「大和魂」という言葉に象徴されるように日本人は特別と思い込もうとした。

 戦争中に国民に嘘ばかり伝えた大本営発表。
 当時の日本は失敗を失敗と認めず
 事実を事実と認めない精神が
 ガダルカナルの失敗から何等学ぶことなく
 その後同じ失敗を何度も繰り返し敗戦に至る。

 辻参謀は「これだけ読めば戦は勝てる」という本作る。
 「敵は中国兵より弱い」と侮る言葉。

 日本人の過信、傲慢さが、
 広く情報を集めて正しく判断するという
 柔軟な精神をいかに損ない
 傲慢さの集団心理が、国の進路を誤らせたか。
 戦争と軍隊だけの話ではない。
 今日もまた復活してないか・・・

 蕨の勉強会にはガダルカナル島で生き残った方がいらっしゃいました。
 第三次攻撃隊が退却する時、辻参謀は「日本軍に後退はない。
 後ろに進攻するのだ。」と言った。
 彼は戦後、参議院議員になった。そういう人を私たちが国会に送った。
 私たち自身が戦争を学ばなかった。デモクラシーを学ばなかった。

その後、内閣は

〜S44.2 南東方面で艦船70隻。輸送船等が115隻。航空機は8000機失う。
      ジリ貧状態が続く。

S44.2.21 東条英機は様々な役職を兼任。首相と陸軍大臣。軍需大臣。参謀総長。
      一人四役。
      秩父宮は心配していたが天皇は容認。

      精神主義に固まった東条が日本を率いた。

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