ロシア革命前のヨーロッパ情勢


19世紀後半 自由主義から帝国主義へ

帝国主義とは・・・
ローマ皇帝の時代、多くの異民族の居住地を次々と支配下に治めた。
それになぞらえて、力のある国が弱小国を支配下におくのを帝国主義と言う。

1870年以降、金融独占資本主義の時代には
強国は更なる利潤のため市場と資源を求め、
安い資源と安い労働力が手に入れられる地域に侵出。

植民地にしたり、あるいは宗主国として従属国を支配。

早くから帝国主義国家として力をつけていたイギリス、フランス
遅れて帝国主義化したドイツ、ロシア、アメリカ、日本が追いかける。
この六カ国の間で二十世紀に植民地の再分割闘争が始まる。

最初に狙われたのが中央アジアのバルカン半島。
バルカン半島は強国によって再分割の拠点となり、植民地の取り合いとなる。
アフリカは20世紀初頭から新しい植民地開発が始まり各国が競って出て行った。


20世紀初頭 植民地再分割の始まり

☆ドイツ☆ 〜先発国に肩を並べるために何をしたのか〜

1873年 三帝同盟 (ドイツ・オーストリア・ロシア
      フランスに対して三人の皇帝が同盟を結びフランスの発展を妨害。

1878年 ベルリン会議 (ドイツ・イギリス・オーストリア)
      イギリス・オーストリアと組んでロシアの南下阻止

   昨日の友は今日の敵。状況を見て組む相手が変わる

1882年 三国同盟 (ドイツ・オーストリア・イタリア) 第一次世界大戦の同盟国
      ロシアの南下を防ぐため。

3B政策 ドイツの西アジア進出政策  → バルカン半島が戦略上 重要
       Berline - Byzantinm(現イスタンブール) - Bagdad

       バクダード鉄道(トルコ、コニア → バクダッド)1903年着工ペルシア湾へ
       地域支配のためには輸送力が必須。植民地支配のためには鉄道が必要。

☆イギリス☆ 〜光栄ある孤立から〜

  当時、世界一の権力を持ち、揺るぎない自信でどこの国とも同盟を結ばなかったが
  新興ドイツの動きや最大対立国のフランス・ロシアに危機感を抱き他国との同盟を結ぶ。

1902年 日英同盟 ・・・ ロシアの南下を日本によって阻止
1904年 英仏協商 ・・・ ドイツを押さえこむために 
                (協商=相談にのって善処するという緩やかな協定)
1907年 英露協商 ・・・ イラン(北は露・南東は英)・アフガニスタン(英)・チベット(相互内政不干渉)
                 における両国の勢力範囲を協定。  ※ 両国の対立緩和

3C政策 ドイツの東方政策への対抗
       Cairo − Capetown − Calcutta

☆ロシア☆ 

1887年  再保障条約 ・・・ はじめはドイツと手を握っていた
       ロシアとフランスの接近を防ぐために、ドイツがロシアに持ちかけた条約
       フランスがロシアを攻めてきたらドイツはロシアの安全を保障する。しかし、
       フランスがドイツを攻めたらロシアは助けなくてはいけないというのはない。
       ロシアに有利な条約でドイツは破棄する。
               ↓

1891年 ロシアがフランスと同盟を結ぶ 露仏同盟(三国同盟に対抗した軍事同盟)

    このように、くるくると強国同士の結びつきが変わっていった


バルカン半島における領土争奪

バルカン半島は元はトルコ領であった。
 
 
   地図は さん のサイトの「20世紀の歴史」の 
   大戦争(グレート・ウォー)への道 −第一次世界大戦前夜− からお借りしました

1912年 バルカン同盟(セルビア・ギリシア・ブルガリア・モンテネグロ)

      ロシアの下心から結ばせた四カ国同盟

      ロシアが呼びかけて、四カ国に同盟を結ばせ
      オーストリアの南下に対して予防線をはり
      バルカン半島に多く残されたトルコの領域を分割し
      バルカン半島にロシアが勢力を伸ばしやすいような状況下においた。

      やがてそこで戦争が起こる。

 10月  第一次バルカン戦争(10月と1913年2月)

       ロシアの指揮の下、バルカン同盟国 VS トルコ との戦い

       トルコがバルカン同盟国に敗れ1913年5月のロンドン条約で(ロンドン=中立地)
       イスタンブールを除くヨーロッパ島とクレタ島を奪われる。

 11月  アルバニア独立宣言(1913年5月トルコ承認)1914年3月ドイツ出身の王が即位。

1913年  第二次バルカン戦争(6〜8月)

       第一次戦争でブルガリアの取得領土が拡大。
       三国とルーマニア・トルコが包囲網でブルガリア大敗。
       ブカレスト条約で多くの領土を失ったブルガリアはドイツ・オーストリアに接近する。

   イタリアはいつの間にか秘密協定を結び、イギリス・フランスに密かに寝返る。

   バルカン戦争後、セルビアはロシアの支援を得てセルビア人の多く住む
   ヘルツェゴビナの領土を自国のものにしたいためにオーストリアと対立。
   オーストリアは1908年にボスニアヘルツェゴビナを自国の領土に併合を宣言。

1914年6月28日 オーストリア皇太子夫妻暗殺される サライェボ事件

    ボスニア州都のサライェボで領土併合に憤怒した汎スラヴ主義の19歳の学生が暗殺する。


1914年7月28日 第一次世界大戦

              オーストリア、セルビアに宣戦布告。

      7月30日ロシアは大軍をオーストリアとの国境に配備する。
      ロシアは国内ではストライキ多発。 国内の反政府運動を抑えるには
      戦争を起こすことによって国民の目を国外に向けさせようと考えた。

     8月1日     ドイツ、ロシアに宣戦。
     8月4日    イギリス宣戦布告。フランス・セルビア・モンテネグロ・日本参戦。

この頃世論は戦争の意義を納得しなければ参戦を許さないところまで成長していた。
イギリスは何故ドイツと戦うかというのに「ベルギーからドイツが撤退しないから。
ベルギーの中立を守るために我々は戦う」と国民に訴えた。

   19世紀から20世紀にかけては、帝国主義というおぞましい時代であった

   第一次世界大戦とはバルカン半島の支配をロシアが手に入れるか
   ドイツと結んだオーストリアが手に入れるか、半島を巡る支配権の戦いだった


    

(第2次)革命前のロシアの国内事情


1915年9月 第一次世界大戦が始まって1年目、すでに戦争継続が困難な状況
(T4)     ストライキ20万人参加。(3月の13倍強)社会不安の増大

      商工業者代表者会議(戦争遂行のためには産業界の発言力増大)
                        ↓
     10月 国会は2/3が反政府勢力に(自由主義、立憲民主党が主体)
         現政府の退陣の要求
         戦争遂行のため統治方式の変更(立憲君主制 樹立)求める

1917年3月 首都ペトログラード
                  8日  7〜8万人の労働者仕事放棄しパン屋の前に行列
        9日  15万人のストライキ
        10日  政府命令で集会禁止・労働者は職場復帰との命令
             不服従者は徴兵猶予の特権剥奪
            (工場労働者としての労働力として徴兵猶予があった)

        ※当時首都の労働人口40万人の時 ストライキ参加者 20万人

   外に戦争、内に政情不安、ストライキの多発。商工業者の台頭。革命の芽。


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