3-3  2005/4/10

 大好きな京都に、妻と毎年春と暮れに行きます。

 今回は洛西の雙ヶ丘を巡り
 近くに住まわれていた岡部伊都子さんを
 偲びました。
 そのあと仁和寺から龍安寺裏山の一条天皇の
 墓所をたずね、そこからの雙ヶ丘の眺望は
 素晴らしかったです。
 そのあと蛸薬師通り近くのウイングス京都に
 与謝野晶子の”青鞜”創刊号の巻頭を飾った
 「山の動く日来る」の詩碑に対面しました。
 
次に室町通りの明治2年開講の明倫小学校校舎を廃校後そのまま保存し活動している
京都芸術センターをたずねました。
昭和初期の机、椅子をそのまま使用している談話室、図書室、若い芸術家達のさまざまな作品の展示等々・・
思いがけない出会いに感動しました。


            教育勅語はいかにして出来たか 


新政府が抱えていた課題

明治政府は帝国の侵略を免れるため、富国強兵しないと、という危機感があった。
軍隊も戦争するためには知識が疎いと判断力が劣るので、優秀な人材を欲して
実学を第一に考えた。

また政府の中枢の元下級武士たちは、皇国作りの主体はあくまで薩長と考え
天皇の権威を借りて政府の権威を強化することを考えた。
そのためには当時の国民にとっては馴染みの薄かった天皇を
絶対的な権威として意図的に教育の場で国民に教え込んだ。


明治政府のとった教育政策

木戸孝允の提言

普通教育を振興することが急務。
欧米風の学校制度を早急に全国的に作ること。
従来の徳川幕府の封建制を壊し近代国家を作ることが必要。

1872(M5)8月 学制発布

明治の三大改革 学制発布 地租改正 国民皆兵・徴兵制)

当時の小学校は、市民の寄付により集まった金を貸して利息を運用したりした。
身分の差別がなく教育を受けられたので金持ちも貧者もそれぞれが金を出した。
学校には鐘楼があり、駐在所があり、役所の支所があり暮らしに溶け込んでいた。

中学校には英仏の教授。
三人の正式な教員(筆道士、区読士、算術士) 窮理=サイエンス 経済書
試験があった    毎月・吟味  春秋・大修業
成績優秀者には褒美が出る。
定期テストに受からなければ進級できない。

京都に見る学校教育

◆1868(M1)10.31 皇学所 漢学所 設置
 
 規則 1.国体(天皇国家体制)ヲ弁シ、
       各分ヲ正スヘキ事(天皇に対する家臣の本分)

     2.漢ノ、西洋ノ学ハ共ニ皇道ノ羽翼(ウヨク)タル事
       (左右の羽が日本の学問を補佐している)

◆中央に先駆けて学制しく

 ・木戸の意向を汲んで長州出身の県令(知事)がやった
 ・天皇が東京に行くので下賜金が出た
 ・市内を64に区画して一区画に一校設置した

福沢 諭吉 「京都学校記」 抜粋    生き生きとした生徒たちの様子

明治2年より目今(もっこん)中学校4 小学校64
市内を64に分けてヨーロッパのスクールと同じ。
区内の貧富貴賤を問わず誰でも。
男女は分けて手習いせり。

八歳より十三、四才 華士族の子もあり。商工平民の娘もあり。
各貧富に従ひて、紅粉を装ひ、衣裳をつけ、その装潔くして
華ならず粗にして汚れず。言語嬌艶、容貌穏和、ものいはざる者も
臆する気無く、笑はざる者も悦ぶ色あり。
花の如く、玉の如く、愛すべく貴むべく、真に児女子の風を備えて
彼の東京の子女が断髪素顔、マチタカのハカマをはきて
人を驚かすのと同日の論にあらざるなり。



教育政策の転換

明治天皇が目指した国民教育  (資料No.3)

宮廷と政府の評価と弊害論
宮廷 政府
明治維新 欧米の長所を取り入れたことで評価するが、欧米化にともなう国民道徳「仁義忠孝」を軽視

        否定的
開国、封建制を廃して平等、自由の世にした


        肯定的
教 育 政府の教育政策を否定
今後は儒教中心の道徳教育重視
現状肯定
数年後に文明普及
富国のために実学を重視
風俗の弊害 国民の道徳力の低下


         危惧
国民の道徳力の低下
政治論の横行(危険視)

         危惧
明治天皇は幼少の頃に御所で日本書紀など学んだため、欧米モデルの教育に違和感持つ。
宮廷と政府はともに自由民権運動の高まりが自分たちの地位を危うくするものと
危機感を感じ天皇はその時期に精力的に地方巡幸を行い天皇キャンペーンをした。

教育に関する勅諭を1879〜1890(M23)に7本発布 (27才〜38才)
★幼児の書編纂親諭 ★士族授産並教育につき勅語 ★小学校教則綱領について内旨
★学制規則につき勅諭 ★幼学綱領賜の勅諭 ★家族女学校につき御親諭
★聖諭記(大学教育に関して)

1879(M12) 天皇の初めての関与 (資料No.12 N0.4)

明治天皇(27才)侍構え元田永孚(ながざね)を通じ”教学聖旨”を示し
儒教的教育の強化を促す
■ 教学聖旨

教学ノ要仁義忠孝ヲ明カニシテ智識才芸ヲ究メ以テ人道ヲ尽スハ我祖訓国典・・・・・

(要約)
教育の要は道徳教育である。実学中心にして洋風にかぶれて大切なことを忘れている。
今は仁義忠孝の教えを学ぶべきである。
まずは道徳を身につけてから実学をやるべきである。

   それに対する政府の見解は・・・
■ 教育議 (内務郷 伊藤博文の意見書)

維新ノ際古今非常ノ変革ヲ行フテ風俗ノ変亦之ニ従フ是勢ノ己ムラ得サル者ナリ・・・・・・

(要約)
実学のせいで乱れをおこしたのではない。急に変えては混乱させる。
実学は尊重しなければならない。科学は大事。国史に力をいれましょう。
政治学は必要ない。法科の試験を難しくして一握りのエリートを政府の役人にしましょう。

1880(M13)12.28 教育令改正 

前年(1879)の教育令では義務教育16ヶ月とした。地方分権化もめざした。

教育改正令では教育に対する国家基準を明示。
中央集権的な教育。修身が一番目。週6時間もあった。
統制強化。
教育費国庫補助を廃止した。

この年教科書の自由民権論 記述禁止

1881(M14)5 小学校教則綱領

尊皇愛国の志気

1881(M14)6 小学校教員心得制定

国家主義的教育をする
国あって民あり
もっとも善良な性行の持ち主の行いによって子どもを感化する
生徒と先生の関係は畏敬の念で接する

1882(M15)2 幼学綱要

宮内庁で編集された小学校高等教育の20の徳目

★孝行 ★忠義 ★和順(妻の心得) ★友愛 ★信義 ★勤学 ★立志 
★誠実★仁慈 ★礼譲 ★倹素 ★忍耐 ★貞操 ★廉潔 ★敏智 
★剛勇 ★公平★度量 ★識断 ★勉職

1886(M19)敗戦時までの学校制度の基礎

■ 3月 帝国大学令
       国家のために必要な人材育成
       法・医・工・文・理の五分科大学

■ 4月  師範学校令

■ 4月  小学校令
        小学校令・義務教育制を初めて標榜

■ 4月 中学校令
       尋常中学 各府県1校   高等中学 全国5校  

1886(M19)5月 教科書図書検定条例を公布 

自由に教科書が選べなくなり、検定制が始まり国の手で編集された教科書


政府が目論んだ教育勅語作成の根回し

山県有朋の”地方自治”制度確立の意味

山県有朋(188年内相 89年12月〜首相)は
各県に息のかかった県令(県知事)を配することで支配の強化を図る

 1988.4.25  市政・町村政公布 
     12月  全国行政区画を3府43県とする
 1990.2.17 府県政・群政 公布

1890(M23)2.17 徳育涵養ノ義ニ付建議

山県有朋が各地の知事の自発的な意見を集めたという体裁をとって
教育勅語を作る世論形成を謀った。
知事全員が2月26日午後、文部省榎本武揚文部大臣を訪ね建議書を提出。
これは日本初の団体交渉であった。
この中に小学教師は「概ネ年少軽躁ノ輩」であり、徳育充実には師範学校から
中小学校までの修身教科書を当局が選定すべきである。とあった。

  知事の意見の例     まるで右翼の集会のよう

石井省一郎(岩手) 徳育優先、知育はその後にすべき

松井正直(宮城)   愛国人倫を教えるべき。総て我が国家を知らしむを勉め
                              真の日本人たるに恥ざる者を養生せんことを冀望す

高崎五六(東京)   高等の生徒の中にも五倫の道を知らぬ者がおり、
                              管内学校に向けて屡々説諭するも馬耳東風毫も
                              其功を見ず 実に嘆かわしき次第・・・これでは政府が
                     虚無党(フランス革命をおこすような人民)を
              養成しているようなもの

桜井勉(徳島)    我が国家を重んずる則ち大和魂なるものを養生せんと
              するの趣旨を加えられ

安場保和(福岡)   学制の精神が学芸技能を先にして徳育に後している
              教育の本源となる大学の方針を正したい 
              ※大学も国家の統制下に

冨岡敬明(熊本)   徳育については普通の手段ではとても回復を
                              望むべくもない
              陛下の直轄御親裁をも望むところなり

柴原和(香川)      陸海軍のことはすべて天皇直裁となっており、
              教育についても直裁を仰ぐという非常手段を
              とる必要がある

籠手田安定(島根) 元老院に日本を共和政治に改めるよう建白した人がいる
              これは狂人の行為である。このような人間を出した原因は
              文明開化ばかりを言い立て、文明に酔い国家の
              あることを忘れたところにある。
                              断固たる処置で国家主義道徳を確立し、明治5年制定の
             学制 明治19年の文部省の方針を改めるべきである

天皇の対応

5月 天皇による公教育への示唆

山県有朋首相(第1次) 文部大臣榎本武揚を更迭。
芳川顕正(内務次官)を起用。
親任式で天皇は異例な発言をする。
「教育上の基礎となる"箴言"を顧むよう。これについて総理大臣とよく相談するように」


教育勅語を発布

      ・・・・・・・ 天皇と政府の思惑から ・・・・・・・ 
                  
1890(M23)10月30日 教育に関する勅語発布

その背景

なぜこの時期に?

前年、憲法発布立憲政治のスタートで権利意識を持つ”市民”が誕生。
その”市民”に”臣民”としての心構えの明示の要あり

※大臣の副署なし

教育方針変化の結果

■ 福沢諭吉 1992(M25)

政策上の過ちは訂正してゆけばいい。
ところが教育は誤って行われると阿片のように体に回り、間違いはまた復活する。
跼蹐(きょくせき)せしめんと試みたこと過ちある。

(天が高いのに身をかがめさせて人間を縮こまらせたと批判した)

■ 学制=個人の完成  教育勅語=国家に役立つ個人の完成


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