2004/11/28


与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の詩にはメロディがあり、戦後、先輩から後輩へと歌い継がれていたそうです。

「終戦時、私は15歳でした。その頃は人生15年だと思って生きていました。戦争で死んで逝った人たちが遺した想いを、生きている限り伝えてゆきたいです。」

   平和は人類の勇気である
            (内村鑑三)
 


明治期の二つの大きな戦争は一体、民衆に何をもたらしたのか、それをたどることが出来ました。


日清戦争に対する人々の思い (資料 13)


日清戦争:1894(明27)年8月 〜 1895年(明28)3月

戦争中は「文野の戦い」(日本は文明国、朝鮮・中国は野蛮な国)という戦争感が広まる中で、中国人を蔑視する風潮が公教育の場やマスコミを通じて急速に浸透していった。

清国が韓国を"食いもの"にしているのではないか、という考えから、朝鮮を解放するための義戦論がまかりとおっていた。


● 内村鑑三

キリスト教徒である内村鑑三もこの義戦論を唱えていた一人。ところが、下関条約締結により日本は莫大な賠償金をもらった。この事実に、内村鑑三は深い悔悟の念にかられ、次のように語るに至った。

 『義戦』は略奪に近きものと化し、その『正義』を唱えた預言者は今や恥辱のうちにあります


後に、「万朝報(よろずちょうほう)」で非戦の声をあげる

平和は人類の勇気である。戦争をもって勇気と見なすは人を禽獣と見ての上である。人類を侮辱する者にして主権論者のごときはあるまい」

「日露の衝突の真義は、両国の帝国主義者の衝突でもっとも多く迷惑を感ずる者は、平和を追求してやまざる両国の良民である」

● 子どもの目から見た戦争〜谷崎潤一郎(当時8歳)

私には此の戦争の理由が呑み込めなかったので、或る日その訳を父に尋ねると、一杯飲みながら長々と一席弁じたことがあった。(略)私が一番不思議に感じたのは、朝鮮の事件である東学党の叛乱に、どうして日本の軍隊が出動しなければならなかったのか。而も朝鮮へ出かけて行って支那の軍隊と交戦したのはどう云う訳かと云うことで、これは何としても頷けなかった。

(コメント) 八歳にしてこの鋭さ!

● もう一つの"愛国"

1901(明34)・2・24
奥村五百子(いおこ)が中心となり、近衛篤麿(このえ・あつまろ)とともに、愛国婦人会創立(上流階級の婦人を会員として発足。会費制)。
目的は、戦死者・準戦死者の遺族及び廃兵の救護。
※愛国婦人会の会員数
  1901(明34)年−13,409人
  1904(明37)年−268,421人
  1905(明38)年−463,766人
  1907(明40)年−707,584人
「中国、朝鮮の悲惨な状況を語り、日本の婦人がそうした境遇をまぬかれているのは、天皇の御陵威の下に生まれたがためであり、強い陸海軍に守られているからである。陸海軍の方々が忠死を遂げて呉れなければ我日本婦人は一日も安穏にしては居られませんぞッ。」
「どうか襦袢の襟を一つ倹約なさって斯会に御入りあらんことを希望致します」 (奥村五百子)

満州事変後、国防婦人会が出来た、これは一般人が対象で会費はなかった。
第二次世界大戦の時に大日本婦人会に統一された。



日露戦争の戦費と庶民の困窮 (資料 14)


日露戦争:1904(明37) 〜 1905年(明38)

● 戦費18億円の内訳
 ・6億円−国内債
 ・7億円−外債
 ・5億円−増税

● 増税
 ・直接税
 ・間接税(酒税、醤油税、砂糖消費税)
 ・戦時特別税(石油消費税、塩税、織物税、通行税=電車の乗車券に含まれた、相続税)

国は増税により予定を上回る収入を得た。
一方、庶民は生活必需品(調味料や、石油ランプの燃料など)までもことごとく税の対象となったことで、非常に生活が困窮した。

所得税は25%アップ、営業税は2.5倍にもなり、物価は値上がり、賃金は下がり、その上、愛国の名の下に、「公債を買え、献金せよ、賃金を工廠預けにせよ」など、庶民はさんざんな目に。

その中で、国民の不満をそらす為に何がなされたか。
忠勇美談の報道や、「勝った、勝った」の報道ぜめで目をそらせられた。
このような状況は、日露戦争時も太平洋戦争時も同じだった。


戦時下の歌、詩


● 禁止された軍歌 (資料No.15)

出征兵士を送る軍歌「戦友」("ここはお国を何百里・・・")は軍隊内で歌う事を禁止された。禁止の理由は、"友人をかばうことよりも自ら突撃して死ぬことがつとめ"だったから。つまり、このような歌は戦意低下につながるということ。
それでは何を歌ったのか。答えは「日本陸軍」。日露戦争時に作られた歌で、軍隊内の役割を歌にしたもの。

● 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」 (資料No.16)

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」の独唱のテープ傾聴。

(コメント)胸に響くメロディ、熱唱。文字で読むのとはまた違う印象でした。このテープは善方先生がかつて、同僚の音楽の先生に楽譜を渡し、歌を録音してもらった時のものだそうです。



今日の講座は約20人の参加。午後は暖スタッフによる手打ち蕎麦を堪能しました。
(飯島さん、いつもありがとう!)

何とその時の参加者自己紹介にビックリしました!
善方先生が教師として最初に教えたのは蕨の小学校。まだ20歳前の頃です。参加者のお一人が「私の姉が小学校の時に先生に教えてもらい、お世話になりました」と云うではないですか!
何十年も昔のことなのに、先生もその方のことを覚えていらっしゃるんです。
しかも、「あの時に出会った子どもたちがいなければ、私は教師を続けていなかったかもしれません」とおっしゃるではないですか!

改めて、人と人の出会いの大切さ、いろいろな人のつながり、そういったことへの感謝の気持ちを感じました。

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